厄介な恋をした
生まれてから、死ぬまで
実ることも、枯れる事もない
美しいだけの徒花のような恋をした
「……この身が女子なれば」
湯浅五助は己が主、大谷刑部少輔吉継の漏らした言葉に耳を傾けた。
今宵は満月。煌々とした月が中天に浮かび、下界を蒼い月光りで照らしている。
それは寝所ですら外さない白い頭巾に白襦袢の寝巻き姿の主をほの明るく、まるで内から発光しているような錯覚を五助に植え付ける。
満ち足りた月、風情のある庭、穏やかな宵に上質の酒、そしてそれらのどれよりも極上の主…
だが既に癩の蝕みにより、視力を奪われた主にはこの素晴らしき景観を見る事はない。
ただ、草木が奏でる微かな物音と、目の見えぬ彼にも注がれる月光と、五助が注ぎいれる酒の味わいを静かに感じるのみだ。
飲み干された酒杯に五助は何も言わずに酒を注ぎいれる。
とくとくとく…と満ちる杯から、ふわりと酒精が夏の名残の夜空に漂う。
「あのへいくゎい者(横柄者)に抱かれる事も出来ただろう」
そう呟き、吉継は一息に、注ぎいれられた酒を煽る。
「だが…」
杯から口を離し、見えぬ眼で見えぬ月を仰ぎながら吉継は空ろに呟いた。
「この身が野郎だからこそ、あやつは我を慕ってくれた……我の望む形ではないが、な。
望みを絶たせつつ、だがまた縋り付く足場だけは残しておる……とかくこの世は上手く出来ておるなぁ」
「………」
五助はやはり何も言わず、ただ酒を注ぎいれる。
「……時は移り変わる、だが……」
呟いて、主はまた酒を煽った。空になった杯にまた酒を注ぐ。
それしか知らぬように酒を注ぎ足す五助もまた、月明かりに濡れて仄蒼く輝いていた。
「のぉ……五助」
「何で御座いましょうか」
名を呼ばれ、初めて五助は声を出した。
視線を主の手元から、主の顔…といっても大部分は頭巾で覆われているそれに移す。
酒を飲むために露出した口周りは、病の進行のため爛れ、剥れ掛けの皮膚と血がこびり付いていた。
見えないはずの瞳はしっかりと五助を捕らえている。
「我が恋の為に、死んでくれるか?」
「……」
「我が為……否、我の為ですらない、あの嫌われ者の為に死んでくれるか?」
五助は答えない。だが主は繰言を紡ぐ様に、ひとりでに語る。
まるで何かに急かされるように、また断罪を求める咎人のように。
そのような主の姿を五助は、ただただ底の見えぬ湖のような瞳に映していた。
それはまるで裁定者のような穏やかでいて、温度の感じない瞳。
奇妙な空間であった。だが、誰も止める者がいない狂った地場は、そのまま続く。
「これはあやつへの恩義や豊家への忠義などではない、
あやつを死なせとぉないという、我の下らぬ、女々しい我儘よ」
「わかっておるのだ、あやつでは内府に勝てぬ。もう、豊家は駄目だ。
太閤様はおらぬし、今だ幼い秀頼君についておるのは戦を知らぬものばかりだ」
「あやつは…治部は、負ける。内府に負ける、良くて討ち死に、最悪の場合は市中引きずり回しの後に打ち首。
それでもきっとあやつは……ただ、あの高潔な瞳を曇らすことなく、言葉にせずとも世の不義を糾弾しながら死ぬのだ。
…………あやつは阿呆だ、世の渡り方の知らぬ、不義が薬になる事を知っていつつ毒といい、
全てが見通せてわかっておるのにそれでも天下を安定するのは豊家しかないという、馬鹿者だ」
「だが……我はあやつに、…………佐吉に弓引く事など、出来ぬ……
あやつが阿呆とわかっておるのに、あやつが愚かとわかっておるのに、それでも尚、我は……ッ!!」
「ああ、そうよ、阿呆は我よ。このように病に爛れた身を持ち合わせて、それでも尚あやつへの恋慕に殉死ようと思うておる。
………妻子の行く末も、民の労苦も、…そなたらの死すら巻き込んで、我はこの恋に生きる。そして死ぬ。
嗚呼…………業の深い事だ!」
震えるその手で顔を覆えば、手に持っていた酒杯が落ちる。
カラン、と月が泣くのならこのような音ではなかろうかと思わせるような軽い音を上げ、何処へか転がり落ちる。
その音が静まる頃には、すでに主の震えはとまっていた。
顔を覆っていた手がのろのろと外されれば、寒月光のような見えざる瞳が五助を射抜く。
「再度問う、五助。我が恋の為に、死んでくれるか?」
その声はただただ静かに、凛とした、まさに「大谷刑部少輔吉継」そのものの様な声音だった。
言葉に呼応するように、夜風が吹いて、雲が月を隠す。
風で明かりも消えたのか、真っ暗に―――目の前にいる主と同じ、眼の利かぬ状況になった五助は、
口の端を吊り上げ、心底愉快というような表情でただ一言。
「笑止。我らが殿が望む事に、我らが拒む理由は焉んぞにありましょうや」
厄介な恋をした
生まれてから、死ぬまで
実ることも、枯れる事もない
美しいだけの徒花のような恋をした
散るか、手折られるか、わからぬその時まで
徒花は徒花らしく、ただ只管に咲き誇ろうではないか
誰のためでもなく、己の意地のまま、咲き誇れよ徒花
彼の者に抱かれる夢を見て、実もつけず、枯れもせず
嘆く事も、怨む事も知らぬ、ただ歪んだ清さを咲き誇れとばかりに
―――徒花のような恋は、そこに在れ―――
秋の初めの冷たい風が過ぎた。何処かへ転がった杯に満ちていた酒から香るは馥郁。
今年もまた実らぬ秋が、日ノ本の足元まで来ていた。
|