ひらりひら、ひらりひら 闇に舞うように散る桜が、日が落ちた空に儚く浮かぶ。 今が盛りの桜花は夜風が吹けば、あっけないほど簡単に闇に踊る。 そんな美しいが故に何処か禍々しい、夜の京を一人の青年が行く。 大通りの真中を堂々と、何処か楽し気に闇に紅の髪を揺らせながら青年は歩く。 常でさえ夜は妖と為らず者達の刻ゆえに只人は出歩かないが、ここ数年は源氏と平家の戦のせいで日が落ちると同時に人気がなくなる。 たまに路に見えるは京を見巡る源氏ゆかりの武者か、あるいは闇に乗じて何かを成そうとしに動く都落ちしたはずの平家の者か。 その様な者等ですら表通りは人目を憚ってか、はたまた闇に溶け込んだ方が糧が得られるのか知らぬが滅多に歩まない。 故にこの様な時刻に出歩いていても、青年は誰にも不信がられる事もなく悠々と京の路地を歩いていた。 星灯りに照らされる青年の足取りは軽く、薄ぼんやりとした闇でもわかるほど秀麗な容貌に笑みさえ浮かべて。 もし人が彼を見たら『白痴か狂人か、あるいは鬼か妖しの者か』と言ったに違いない。 そのような者もいない中、青年は京を行く。 後にはただ彼の痕跡を掻き消すように、ただ桜は路地を包む―――― 数刻前、六波羅――― 昼間の六波羅は様々な民達が入り混じって一種の無法地帯となっている。 そこの荒屋を拠点に源氏と平家、そして朝廷の動きを窺って六波羅を練り歩いていたヒノエの元にある情報が入ってきた。 「白龍の神子?」 その話題を持ってきたのは、組紐を売って日々を凌いでいるヒノエより歳上に見える女だ。 見える、と言う形で説明を取るのは、実際幾つかヒノエは知らないからだ。 夜は春を鬻いでいるのかやたらと扇情的で、ヒノエの身分を何となく嗅ぎ取っているらしく、 京の町の噂を逸早く仕入れてはそれを逐一ヒノエに教えて小銭を巻きあげる。 ヒノエも歳も素性も知らないが故に全面的には信用していないが、その早耳としての才は認めているため何かと頼りにしている。 この六波羅で身元が明らかな者ほど怪しい者はない。互いにこの法則を熟知しているため、ヒノエはこの女を側に寄る事を許しているのかも知れない。 適度に距離を保ちつつ、互いに深い干渉はせずに望むものを交換する。 良い事にしろ悪い事にしろ、このような関係を持つ者は六波羅では珍しい事ではない。 女は艶美に赤い唇を吊り上げて、閨事を囁くように言葉をつむぐ。 「そうだよぅ、若旦那。まだあまり知れ渡っていないが後二、三日もすれば、京全体を揺るがす大きな噂さ」 ふふ、と蠱惑気に笑む女にヒノエは問うた。 「随分前から出現したと聞く黒龍の神子じゃないのか?」 「違うよぅ。正真正銘、白龍の神子さ。 平家方の怨霊を封じているんだから間違えないだろぅ?」 そうコロコロと笑う内容は道理が通っていてヒノエは黙り込んだ。情報が確かなようだ、と思ったからだ。 「今は源氏の御曹司についているようだけど……さぁてどうなる事やら」 ペロリと赤く柔らかな舌で唇を一舐め。 その様はヒノエに、人を一口で食らうという異国の獣を思わせた。 「……その神子姫の所在はわかるか?」 ヒノエのその問いに、女は一瞬不意をつかれた顔をしたが、すぐに常の艶かしい雰囲気を纏わせ、艶笑う。 「おやおや…若旦那、相変わらずお好きな事で…伽なら、私が相手をしてあげるよぅ?」 するりと猫のような身軽さでヒノエの首に細い両腕を巻き付けて笑う女に、ヒノエは女に負けないほどの色気を漂わせて笑んだ。 息が触れ合うほどの間近で微笑まれた女は思わず息を飲む。 男女の色事に慣れている女でさえ、絶句するほどの色気…… ヒノエはそんな女の様子に無頓着な風に言葉を続ける。 「そんなんじゃねぇよ……ただの好奇心、さ」 「…ハッ!ただの好奇心で祓われない様に注意しなよ? 神子は汚れを祓う、というからねぇ……若旦那なんてイチコロだろうよ」 「御忠告に添わないように注意するよ」 絡めた腕をほどき、悪態に近い忠告を軽く流すヒノエに、女は忌々しく舌を鳴らすとぶっきらぼうに言い放った。 「神子は源氏の軍奉行の梶原景時の所にいるよ。 でも神子の回りには御曹司やかの有名な武蔵坊弁慶、弓使いの青年やらがうろついているらしいからねぇ」 意地悪く笑う女にヒノエは軽く笑って、情報料代わりの銭を差し出した。 五日は楽に過ごせるほどの銭を躊躇うことなく奪うように受取り、距離を離す。 「んふふふぅ……毎度、若旦那。また、よろしく頼むよぅ」 女は蠱惑気にしかし歪んだ紅の様な笑みでヒノエを見つめてすぐに雑踏に姿を紛れさせた。 すでにもう組紐の商いを始めているのか、呼びかけの声が耳に付く。 その後の人の波に残るのはヒノエのみ。女の残像はすぐに人の波に消されて、微かに聞こえた商いの声もすぐに雑音の一つとして埋もれる。 ヒノエはふむ、と考えながら人の波に流れるように歩き出す。 ざわざわと音が音としかなりえない人込の中は、ヒノエにとっては極上の思考錯誤をする条件だ。 源氏、平家、朝廷―――様々な思惑が熊野を引き入れようと、ヒノエを……熊野別当を誘う。 その全てをはぐらかし、中立を保つことも出来ないわけではないが、それをするのは得策ではない事はわかっている。 やはり遠くない未来にどれかの勢力に与するべきであろう。 しかしまだどれが最期に笑うかヒノエには想像付かない。 死から蘇った清盛公か、背後に底の見えぬ力を持つ頼朝か、 はたまた今は大人しくしているが腹の底では何を企んでいるかわからない後白河法皇か。 ヒノエだけでなく大半の実力者も、まだ見極めることは出来ないだろう。 そんな混沌の中に現れた――――白龍の神子。 今のところは源氏方についているようだが、それだけでも独立したチカラになるはずだ。 現に先代の神子は院と帝の勢力すら越え、両勢力を纏めたと聞く。 きっと平家も朝廷も『神子』を手に入れたがるだろうし、源氏も『神子』を利用してこの戦乱を有利に持っていこうとするだろう。 ――――この戦の鍵は、神子の手にあるといっても過言ではない。 「早めに、見極めた方がいいな・・・」 ぽつり、と呟いた言葉はすぐに街の喧騒に掻き消える。 その言葉を拾う事無く、ヒノエは街を進む。 不意に、足を止めた。しかし人の流れはそれに頓着せずに、ただただ急かされているように早く流れていく。 そんな人の流れの中に残されたヒノエは小さく微笑った。 そして一言 「よし、今宵は花を見に行くか」 この戦乱の世に咲いた、神聖な唯一の花を見に――――― その言葉もすぐに六波羅の喧騒に流され掻き消えた。 ヒノエの足が止まった。 「ここか…」 そう言いつつ見上げるのは一つの邸。この邸は源氏の軍奉行・梶原景時の京での邸だ。 白龍の神子がいる、というその邸。 梶原景時は陰陽道を嗜むと聞くから何か特殊な結界でも張っているのか、と警戒していたが、見る限りそういう訳でもなさそうだ。 「まぁ、龍神の神子姫の清廉なる気なら、並の結界以上の効力を発揮するだろうけど」 見るのが楽しみだ、と舌で唇を湿らせて笑う。 このほうが有り難い。忍び込む障害はないほうがよい。変に結界とか編まれているのも厄介だ。 結界を人知れず解くのに手間取られ、忍び込む頃にはすでに夜が明けていたら興醒めだし。 ヒノエはそう考えながら、足を軽く解して深呼吸。それから周りを見て人気がないのを確認すると タンッ――――― 塀の上に跳躍した。風に乗る花びらか羽根のように、軽やかに鮮やかに。 あまりにも簡単に跳んだ手並みは慣れたもので、人外の力でもあるのかと思わせるくらいだ。 もし人が見ていたら質問攻めにあうであろうがここには人がいないので、ヒノエはあっさりと行動を開始した。 庭の大木に移り、邸の様子を眺めてみる。 灯りは落ちているのか、邸は暗く静かだ。 「もう寝ちまってるかな…」 さすがに邸内に忍び込む気はないので、若干落胆したような呟きを出す。 「奥が黒龍の神子姫の座所だって聞くから、とりあえずそっち行ってみるかな」 近くの庭に何か軽い物音でも立てれば、神子姫が庭へ出てくるかもしれない。と思い、木や塀を伝いながら身軽に移動を始める。 その姿はしなやかな猫の様だ。風で揺れるような微かな音しか立てず、ヒノエは邸の奥の方へと進む。 すると――― ヒュン、ヒュ・・・ヒュン・・・ 「……?何の音だ?」 奥へ行けば行くほど、ヒノエの耳に風を切るような音が入ってくる。 それと同時に微かな草のざわめきも耳を擽る。その音は自身が立てる音よりも遠慮がない。 ヒノエは慎重に気を張りながら奥の方の庭が覗ける木に移り、そっと気配を消して木々の隙間から庭を覗いた。 見るとまず目に付いたのは小さな池。 それは上流武士の邸なら珍しくもない物だが、しかし池に合わせた花のあしらい方などは、庭全体としてよく調和していて悪くない、とヒノエは思った。 だがそんな見事な庭よりも、鮮やかな輝きを放つものがあった。 底が見えない闇の中、深々と津々と輝きの花弁を散らすそれは池の奥にある見事な桜の大木であった。 桜の花弁は月よりも鋭く硬質な星明りに照らされて、キラキラと玉の欠片のような煌きを春の宵に散らしている。 その春の夜に相応しい桜の下を見れば、一人の女が細身の太刀を持ち星明かりの中、舞っていた。 女の腕の様に細い太刀を流麗に動かし、桜舞い散る春の闇の中、一心に舞っている女。 そんな女の格好は、生まれた年月を考えれば様々な人種と付き合ってきたと自負するヒノエが見ても不可思議なものであった。 春を売る女ですら恥じ入りそうなほどに短く薄い腰巻き、 見慣れない足履きなどは異国の代物というより、寧ろ他の世界の物の様だ。 それから隠しても隠しきれない程に清廉な陽の気―――――間違えない、あれは 「白龍の神子姫………」 思わず口から溜息のような声が出てしまい、慌てて抑える。 幸い、神子のいる場所から随分な距離があるのと、神子自身が精神を集中している為か気付かれることはなかった。 雄大な桜の木の下で神子は舞い続ける。 ヒノエは口元を手で覆いながら、じっくりと神子の様子を眺めた。 細く白い腕が闇にほんのりと光る様や、それに合わせて動く桃色の袂。 女童がはしゃぐ様に軽やかに動くのは、まだ女というには早いしなやかな体躯。それに半歩ほど遅れてから動く闇に染まらない黒髪の流れ様。 その光景はヒノエを高揚させるのに十分な艶を発していた。それと、その艶以上の聖らかさ。 「……」 思わず息を飲む。その音がやけに耳に届いて、また心の臓が跳ねる。 時に柔らかに、そして時には烈しく。 はらはらと、はらはらへと雪のように降る桜に抱かれながら、一心に太刀を振るう。 それは神託を受けるための巫女の舞に似て、息をするのも憚られるほどの聖麗さ。 しばらくただそれを見ていたヒノエはある事に気付いた。 スルリと神子を抱くように散る花弁の一部は、神子に触れる前に分断されている事に。 綺羅星の光を受けて、白く輝くそれを断つ一閃の輝き。 いや、それは輝きではない―――目に留まらぬ太刀の跡だ。 ヒノエはこの時、初めて悟った。 神子が持つ細身の剣は飾り物ではなく、物を断つ―――必要に応じては人をも絶つであろう物だ、と。 今まで神子は舞ながらも、散る桜の花弁を断っていたのだ。 ただ星に桜に舞っているだけかと思っていたが、己の予想と全く違っていた。 舞うように流れる動きは風を読み、桜の動きを知っての上。 陶酔している如くに一心なのは、己の総ての感覚で桜や風、そして己自身と対しているからだ。 「へぇ…なかなか…」 そう喉の奥で笑う。 予想外に大した姫君だ、と悪寒にも似た興奮が背筋を伝った。 伝承の神子達はその清らかさでもって魔を払い、京の危機を救ったと聞く。 しかしこの神子姫はどうだろう。 清らかでいながら太刀を手にし、神に舞うように物を断つ。 極上の花でありながらも、凛と鮮やかに己を持って立つその風貌。 ――――好みだ ペロリと舌で唇を湿らす。ゾクゾクする。 悪寒めいたそれと共に「この神子姫の下ならば勝利を見る事ができる」という根拠もないわりに、ひどく鮮やかな確信が浮かんだ。 どれだけの時間が経ったのだろうか。 不意に、というほどに唐突に神子は舞う事を止めた。 構えていた剣を下ろし、空を仰ぐ。ヒノエも神子に真似て空を仰いでみる。 梢の隙間から覗く夜空に月はなく、どれほどの時が経ったのか判別がつかなかったが、 瞬く星の輝きは先程まで神子が断っていた花弁に似ている気がした。 「……」 「…え?」 神子が何やら呟いた。しかし遠く離れた木の上にいるヒノエには、神子が何を言ったのか聞き取る事は出来ない。 視線を夜空から神子に戻せば、 ――――――夜空を映す瞳の色彩は、痛いほど真剣で切なかった。 あまりに切ないその眼差しに、ツキンとした痛みが胸に湧く。 何だこの痛みは、そう問う前に神子の瞳に引き込まれて言葉が詰まる。 先ほどまでの凛とした少女に不釣合いな戦女神な面と 今の夜空を見上げる切ない、不安定な少女な面。 なぜあのように女の身で強かなのか、なぜ強かでありながらもその様な切なさを纏うのか。 それを知りたい、と強く願った。 神子はしばらく夜空をただ見つめていたが、くるりと振り向くとそのまま邸へと戻っていった。 その背中は凛としていて、すでにあの切なさはなりを顰めている。 きっと彼女は常に凛とした「白龍の神子」なのだろう。 あの、歳相応の表情を知っているのは自分だけ――― そう考えると、自然と笑みが浮かんでくる。 「ふふ……本当に、興味深い神子姫様だ」 クスクスと笑ってから、桜を見下げる。 ちらちらと、神子がいなくなっても当たり前のように散る桜。 常ならそれも「綺麗だ」と思えるはずなのに、何処か空虚に欠けているようにしか見えない。 ……神子が、いないからだろうか? ――――白龍の神子、か ヒノエは艶やか、と言えるほどに惚れ惚れとした鋭い瞳で笑う。 星の明かりを含む瞳の色は、鮮やかに燃えていた。 ただ桜はちらちらと散る。 ひらりひら、ひらりひら…と夜風に揺られ、鮮やかに舞う。 それはこれからの激動を祝福するかの様でも、 ヒノエの心に湧いた不可思議な感情をからかう様にも見えた。 そんな桜やヒノエ、そして神子を卯花月になったばかりの闇が優しく包んでいた。 作品においてのツッコミ所を懺悔してみた→「某八葉と懺悔漫才」 |
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