耳鳴りのように付き纏う幾重の雨垂れの音

閃光の後、遠い雷鳴

鮮烈な雷光が浮かばせるのは、あらゆる贅を注ぎ込んだであろう絢爛豪華な広い部屋

そしてそのような部屋に不釣り合いな、細く老いた小さな男


枯れ細ったその身には豪奢過ぎる布団は重かろう

まるで押さえつけるように覆い被さる掛け布団の下、老人は一見、力なく横たわっている

だが、まるで乞食のように痩けている老人の、その瞳は不気味なほどに血走っていて、

零れて転がぬのが不思議なほど見開かれていた



―――――この老人は、太陽であった。
その光でこの国の普く統べてを照らしていた。
だが、もはやその面影はなく、今や落日を持つばかりで、
太陽だったものは一瞬でも長くと生にしがみ付いている。
男が醜いまでに生にしがみ付いているのは、ただ一つが故。


…雨が落ちる音がする。
老人の口が動いたが今となってはもはや喉も舌も動かず、
口から転び出た幽かな息すらも、絶え間なく響く雨音に掻き消えた。
だが横に控えていた男がまるで聞き取ろうかとするように老人の枕元に寄った。

―――彼は小姓ではない。小姓にしては年嵩過ぎる。
しかし、現状で小姓のようにこの老人の雑役をこなしている。
この男こそが老人に見出され、愛しまれ、
右腕としてその才を余す事無く、主が為に振るっている石田治部少輔三成である。

馴染んだ気配が解ったのか、老人が手を伸ばした。
遠くに落ちた閃光に照らされた老いた手は、部屋の豪奢さに比べ、一層細く薄暗い中に浮かぶ。
男がその手を掴もうと手を伸ばせば、繋ぐより先に老人が凄まじい力で延ばされた手を掴む。
そして血走った眼で男を見据えて、開いた口からは音もなく迸るは、
直向き故に歪んだ、呪詛のような願い。

オヒロイヲタノム、チャチャヲタノム、トヨトミヲタノム

声にならぬが雷鳴よりも強く場を打つ。
子を。愛妾を。己が起こした家を。
ただそれしか知らぬ子供のように老人はそれだけを、己が愛しみ、また用いた男に縋る。
狂っている。正気など疾うに失せ、その残滓すら見当らない。
だが、繰り返し、繰り返し、声にならない声で叫び続ける。
癇癪を起した幼子のような要領を得ない必死さで、ただ、ただ。
覆い隠すように響く雨音、雷鳴。それすら狂った翁の繰り言を止める事は出来ない。
それら全てを目の当たりにし、受け止めている男の横顔は能面のようでいて、
雷鳴に照らされては、その贅を極めた室内にも負けぬ華やかな顔を、青白く浮かび上がる。
時たま、男が小さく唇を動かす。

「御意に」

だが、その言葉は天にも老人にも、誰にも届く事なく、落ちては消えた―――






「三成」
耳奥の雨音が不意に途切れる。思考の淵から意識を上げれば、視界を覆う闇の深さよりも、自分の体の重さに驚いた。
そう言えばここ数日、寝所で寝た記憶がない事に気付く。
己を、日の本を掌中に収めた太閤の死から早数日…、三成は葬儀の段取りに諸侯の根回し、
朝鮮出兵の引き上げ作業など八面六臂の仕事をこなし続けている。
周囲の者どもは嘆き悲しみに暮れているばかりで、
迫っているもの―――朝鮮の地で今もなお戦っている兵士の事、
牙を剥くのを今か今かと機を窺っている狸の事、
またそんな事など露知らず、城中で健やかに育っている幼い秀頼君の生く末などを蔑ろにしている。
それは太閤が死ぬ直前まで最も心配されていた事だ。だから三成はまずやるべき事をやった。
だがそれは周囲から「冷血」「恩知らず」という陰口を叩かせる要因となったようだ。
周囲は悲しみを満喫しても、なお足りないらしい憎悪の矛先を三成へと向けているのだろう。
―――それを恨めしいとすら思わない。と言うよりは誰が言ったかすら覚えていない。
恨むよりも、休むよりも、糾弾するよりも、嘆くよりも…やるべき事が山積みで呼吸の仕方も忘れそうなのだ。
「三成?」
怪訝そうな声で再度、名を呼ばれ、三成はゆるゆると緩慢な動きで振り返った。
振り返った先―――薄暗く、先が闇に飲まれていても尚、見慣れている大阪城の廊下の中程に佇むのは知人の姿。
その姿は彼が好んで纏っている常日頃の浅縹色の軽装備とは異なり、黒衣の正装姿という見慣れぬ恰好で……
………思えば『鳥無き島の蝙蝠』と、かの魔王にも皮肉られた男であるのに、黒衣が見慣れぬとは可笑しな話だ。
ぼうっとそんな事を考えたのと同時に、三成の唇は勝手にその男の名を呼んでいた。
「元親…………?」
ようやく名を呼ばれた男こと土佐を治める長宗我部元親は三成に近付きながら口を開く。
「暫くぶりだな」
「何故大阪城に……ああ、もう其方にも伝わったのか」
「生憎と、な」
薄暗い中でも表情が見えるくらいの、離れすぎず近すぎずといった具合のいい距離で元親は立ち止まった。
…と思いきや、一瞬の間の後に元親はずかずかと一気に距離を詰め、三成を凝視し出す。
「…………………」
「……? 何か問いたい事でもあるのか?」
「ああ」
「葬儀の件か?」
「違う」
「………朝鮮の事ならば」
「…違う」
「…秀吉様の最期な」
「三成」
元親は静かな声で、しかし明らかに苛立ったような表情を浮かべて三成の言葉を遮る。
険しい目つきで三成を見たかと思えば溜息を吐きだし、いきなり三成の手を取って歩き出した。
「……………… …おい!元親、何を…!!?」
思いもよらぬ行動は機敏な三成の反応を鈍らせたのか、文句を吐きだしたのは元親の手が容易に振り払えない様に力を入れた後で、
三成はわけのわからぬままに要領の得ない疑問を問いながら、導かれるままに廊下を歩まされる。
一方、元親は三成の問いには答えず、冷静と思われるほどに迷いもなく
不慣れであろう廊下を進み、客室の一室の扉を開け、三成を中に押し入れた。
「……ッ!!?」
引き摺り慣れていた所で、乱暴とも言えるほどの強烈な力で引っ張られ、手を放されたものだから、
対応が一瞬遅れ、無様にも転びそうになるのを必死で踏ん張った。
元親とはそれなりの付き合いとは言え、いきなり有無も言わさず手を取られ、一室に連れ込まれたのははじめてだ。
行燈に照らされただけの闇に、襖の閉まる幽かな音が響く。
「おい、元親。何を…」
隠すことなく『不快だ』と言いたげな顔のまま振り返り元親を睨めば、唐突に頬に手を添えられて覗きこまれた。
齢五十を疾うに過ぎたと思えぬほど冴えた美顔は遠目でも迫力があるが、
更に近くで見つめられれば流石土佐の出来人と呼ばれるだけの圧力がある。
行燈に照らされている白い右頬に走る刺青が、炎の揺らめきと共に静かに動いているように見えた。
するり、と目の下の皮膚を撫でたのは元親の親指。
朧に見える頬と白い指の輪郭は、刺青と同じ藍の色。
「……やはり、泣かぬのだな」
そう呟くと、目の下を撫でていた指が眼窩に近づく。
思わず瞳を閉じると、今度はゆるゆると瞼を優しくなぞられる。
「寝ておらぬのか?」
「……多分、そうなのだと思う」
「多分…とは?」
「やるべき事が多くて、自身に関する記憶が曖昧なのだよ」
そう素直に告げると、頭上から落ちてきたのは呆れの混じった小さな溜息。
「寝ろ。凄絶に寝ろ、三成」
「今まで倒れておらん…はず、だから……倒れる前には寝ているんだろう、多分。
 というか元親。何でも凄絶ってつければいいって問題じゃないだろう。どんな寝方をすれば凄絶に寝た事になるんだ」
そう反論すれば
「少なくともそんな理屈を捏ねる寝方ではないな」
と苦めの答えが返って来た。
瞼を上げようにも、その上に置かれている指が眼球を揉み解す様に柔らかく動いている為に叶わない。
払いのけようとしても、術でも使われたように休んだ覚えのない己が体は重く、ただ立っているだけしか出来ない。
ただゆっくりと撫ぜる掌の熱さが、たゆたう宵闇が、幽かな月光りが、優しく甘受するだけしか出来ぬ三成に染み渡る。
ぼうっとその優しさに酔い痴れていると、出し抜けに耳に飛び込んできたのは、馴染みのない変わった唄。
低く朗々と、凪ぐ海をあまねく照らす月の様にそっと、
しかし悠然と紡がれる唄は、掌の熱さ同様に、するりと三成を包み込んでしまう。
耳にするりと容易く入って来るその唄は、何度か宴で聞いた元親の奏でる三味線の音に似ている、と三成は思った。
励ますのでも、導くのでも、簒奪するのでも、罵倒するのでも、染色するわけでもない。
ただ側に添い、在るがままを許容する。そんな楽音。
―――俺は優しいと思うが……何も求めずにある、その在り方は寂しいかも知れぬ、な…
ふわりと浮上する感覚の中、三成はそう感じる。
…睡魔の口付けの心地よさの下で疼いた、ツキンと胸に走った痛みに気付かず、三成の意識は沈んでいった。


くたり、と倒れ込んだ体を、元親はそっと抱き止めた。
立ったまま胸に凭れかかって、寝息すら聞こえないほど熟睡しきった様は、如何に彼が己が身を酷使したのかがわかる。
そっと起こさぬように、元親は三成の重心をずらし座らせて、三成の頭を己が肩に乗せる。
途中、体の意にそぐわぬ動きだったのか、その柳眉を寄せたが、結局起きることなく、寝こけていた。
元親が戯れにと、三成の頬に掛った髪を耳にかけてやれば、露わになる白磁の頬。
行燈の暗い橙の光に照らされても尚白いのは、血の気が通っていないからに異ならない。
―――薄暗い廊下で発見した時、あまりの反応の鈍さに別人かと疑い、
また対面した時の青白さ、細さは人というより幽鬼の類にしか見えなかった。
無理やり掴んだ手もまるで白磁の茶碗のような冷たさで、時折幽かな痙攣のような抵抗が余計に痛々しかった。
太閤が死してから、心血全て注いで諸々の雑務を取り仕切っていたのは、この憔悴しきった様からして疑うべくもない。
だがそれほどまでに肉体的には痛ましく虚ろでありながらも、精神はただただ気丈で薄ら寒いほど理性的であった。
ただ一つ、太閤が託したであろう願い、………いや、そんな美しいものではないだろう。
日の本を手中にしてから歪んでしまった太閤の妄執。そう称する方がおそらく相応しい。
その言葉を胸に抱き、愚かなまでに真っ直ぐに迷わず歩いている。
三成のそんな狂気染みた純粋さを恐ろしいと言うべきか。それとも………哀しい、と言うべきか。
全てを手にいれ、なお貪欲に手にすることを望んだ男の最期に口にする事など、家の事と相場はつく。
特に彼の後継たる一つ胤はまだ幼く、そんな幼子が長の家など、乱世を潜り生き残っていた猛者達からすれば片手で捻る事も容易い。
だが皮肉にもあまりにも戦で疲弊した彼の周囲は、その事に気付いていても危機感を覚えているものは少ないのだ。
「……ん?」
不意に三成の唇が規則正しい寝息の動きから逸れたのに気付いた。
深い寝息の中、あえかに動いた言葉は―――

……ひでよし、さ…ま……

意識を完全に手放してもなお、三成はそう紡いでいた。まるで呼吸するように、自然に。
―――『皆が笑って暮らせる世を作る』
そう豪気に笑っていた男は、己が子に執心するあまりに、昔、我が子同然と可愛がっていた男たちの笑みを奪い、
腕の中で深く眠っている彼に至っては、涙すら進んで黄泉路へ下った太閤へ奉げた。
(秀吉、アンタにとって石田三成とは、ただの都合のいい部下だったのか………?)
目元をそっと撫でても、ただ冷えた肌の感触だけで、涙で濡れる事は無さそうだ。
ただ時たま寄る眉は不快と言うより涙を堪えるようで、
声も出ないほど深く眠っている癖に、それしか知らぬ赤子のように声なき声で主を呼ぶ。
(泣きもせず、叫びもしない。か……
 三成、お前の中で渦巻いている凄絶な思いは何処へ行っているのだ……)

泣けばいい、叫べばいい
そうすれば何も知らぬ周囲の者でも、お前がどれだけの悲しみに苛まれているか理解できるだろう
だがお前は全てを抱え込んで、一つに傾倒し、他に見向きもしない
己に恥じない、一つがあればそれでいい
多くを求める事には無欲で、だが一つを手放せないほどには貪欲
その生き方はひどく哀しいが、―――お前らしい

元親は三成の体制を再度ずらし、背中と膝裏に腕を回し入れ、抱き上げた。
元々、偶然見かけて、あまりにも見ていられなかった三成を
泣かせるなり叫ばせるなりさせて、飲み込んでいる諸々の事を吐きださせようとするためだけに連れ込んだ部屋だ。
実際にはその目的は達成できなかったが、眠らせる事が出来たのでよしとしておく。
だから長居はするつもりはないし、眠ったのなら家臣の島何某やら、無二の親友と聞く大谷何某とやらに渡しておく方が賢明だろう。
………本来ならば彼らのような三成の傍にいる者が、このように休ませるなり泣かせるなりしたかったのだろうが、
三成は彼らに対して幼子の駄々に近いような頑固さで我を通すし、
また彼らも三成の自尊心の高さをよく知っているからこそ、さほど強く進言する事は出来ないはずだ。
彼らと違って、元親と三成の付き合いは大して親密という訳ではないが、
感覚が似ているのか一緒にいても気まずくならず、また互いに互いの言動が苦ではないほどには馬が合う。
基本、三成の交友関係は狭めで、なおかつその気質から対人関係は
好かれるものにはとことん好かれるか、もしくはとことん嫌われるの2択なのであるが、
三成の知り合いの中で元親はちょっと特殊な領域にいると自分事だが分かっている。
だからこそこのように強引に事を進めても、三成は仲がいい者に対するほど強気に出れないし、
また元親自身の気性をつかみ切っていない割に好意を持たれているので有耶無耶にする事も出来るのだが。
抱き上げると思ったより重かった。即ち、それはそれほど深く眠っている事の表れで、ちょっとの事で目覚めない事に安堵した。
大体、思ったよりといっても、寝食忘れているだろうと容易に理解できる憔悴の状態や、
元来の見た目の細さ、武より文を得意とする事など、かなり普通より軽く見積もっているので、
実際の所、やはり成人男性と思えぬ軽さであることは事実であった。
三成を抱えてもふらつく事無く部屋から廊下へ出れば、先ほどから半刻と経っていないのにかかわらず、随分と明るい。
暗所から出てきた元親は思わず瞳を細め、光源の元―――即ち格子窓の外を覗いた。
夜天には歪な月がゆらゆらと、幽かな熱気を孕んだ闇を優しく裂いている。
歪んだ月から発せられる清廉な蒼い月明かりが、生温い闇を冷やしているようだ。
それは高みから平等に、健やかなる者も病める者も、幸せな者、不幸せな者、
富める者、貧する者、何一つとして隔てなく、地上へ降り注ぐ。
もちろんその穏やかな蒼い光は元親も、その腕に抱えられた三成も染めていく。
元親は月明かりに照らされた大阪城の廊下を、ゆっくりと静かに進む。
不意に、晩夏特有の熱さの余韻と初秋の柔らかな空気が混ざった、絶妙な風が二人の髪をさらりと撫で擽る。
そんな小さな事すら三成へのこの世界の慈しみに見えるのは、
この男の境遇がそこまでに哀しいと思っているからか。……慈しみたい、と願っているからか。




せめてこの世がもう少しでも……いや、今見ている夢だけでも、彼に正しく、優しいものであればいい。



格子窓から射す月光が、垂れた三成の腕を蒼く染める。
薄暗い廊下の中、袂から除く白い手の先についた爪が反射し、
まるで今まさに滴る涙のようにチラリと光っては影へと消えていった。



後書き



………言い訳は長くなるので別の場所でします(しないわけではないのか)
とりあえず綺麗所な二人を絡ませられたので自己満足度は高(殴)


三成と元親は仲がいいわけじゃないけど、二人一緒にいて楽な関係だといいと思うんだ!!!



あ、この作品のイメージソングはCo/ccoの「ジュゴンの見/える丘」
これは三成のイメージ曲、というか、三成に捧げたい曲……という回りくどい感情を抱いている曲です。
特に秀吉没後まっただ中の三成に捧げたい。



08/06/09/up

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