――――――ついにこの日が来てしまった
 
        如月の半ば………2月14日
 
        そう、乙女の決戦(?)・バレンタインデー
 
 
 
ハァ……
「どーしよ…」
 
熊野の藤原邸に陰鬱な響きを持った呟きと溜息が響く。
その呟きは熊野の若き別当の奥方であり、元・龍神の神子姫であった望美の唇から漏れた物だ。
明朗快活な望美が憂いたっぷりの溜息をつくなんて、ともうすぐ1年前になる源平合戦中なら色々と心配されただろう。
でも、それは最近では珍しいことではない。
ここ数日、望美は暇を見つけては自室に篭って、なにやら難しい顔つきで考え事をしているのだ。
最初の頃は傍仕えの女房達に心配されたのだが、望美が『大丈夫だから心配しないで』といい続けた所為か最近はそっとしてくれている。
『悪いな』とは思うのだが、『迷惑はかけたくないしうーん…』という堂々巡りに陥ってしまうので、皆の親切に甘えてしまうことになっている。
望美が頭を悩ませている事、それは…
 
「バレンタイン、ねぇ…お菓子どーやって作ろ?」
 
乙女の一大イベント・バレンタインデーの事だ。
京では関係ないとわかっていても、元いた世界では乙女の3大イベントの一つでも有ったイベントだ。
望美もこの世界に住むと決めたとはいえ、まだ若き乙女。しかも今までと違って、渡したい相手もいるのだ。
どうしても愛しい旦那様であるヒノエにバレンタインのプレゼントをあげたい!と思ってしまう。
しかしここは京。元いた世界とは大分違って、チョコレートはおろか甘味すら大変貴重な時代だ。
饅頭も団子、羊羹もまだ存在せず、京で菓子として存在するのは固い唐菓子である。
唐菓子の作り方は知らないし、甘くもない唐菓子では浪漫のムードもないのでできれば遠慮したい。というのが望美の本音。
第一、そんな唐菓子でも貴族の食い物=値が張る。経済面と乙女的面からして無理だ。
一応、砂糖は存在はするがこの時代の砂糖は薬味、しかも唐菓子なんかよりもとてつもなく高価な代物だ。唐菓子以上に無理。
万が一、砂糖が入手できたとしても、望美の不器用さは筋金入り。どれだけの無駄遣いの上に完成品が出来るか…と考えると恐ろしいことこの上ない。
 
「譲君って本当にすごかったんだなぁ…」
 
色々考えているうちに浮かんできた、料理上手のもう遠い幼馴染に尊敬の念が湧いて賞賛してみる。
今から考えると彼が簡単に作ったように見える「ハチミツプリン」にどれだけの無理難題がつまっていたか、望美にはよくわかる。
 
「…こーなるんだったら、何個かレシピ聞いておけばよかった」
 
後悔先に立たず。覆水盆に返らず。零れたミルクを嘆いても無駄だ。
頭の中にそれら同意味の格言が浮かぶが、「後悔なんて後からするもので先に出来たら苦労しない」なんて誰に言うわけでもなく心中で反論。
 
「…だめだ、現実逃避に入っている」
 
二、三度頭を振ってからごろり、と板張りの床に寝転がる。
まだ春とは名ばかりの如月の大気は冷たく、床はひんやりと床暖房ならぬ床冷却であった。
オーバーヒートした頭と体にはちょうどいい冷たさで、とろりとくだらない思考が溶けていく心地よさに満たされて瞳を閉じる。
 
「ぁー…………」
 
しばらくそのまま寝そべっていると、体温が移ったのか床はほのかに温くなる。
右腕を上げて、顔面に翳す。そして指を折りながら、再度思考を働かせた。
 
「チョコは当たり前だけどムリ。カカオないし。
 唐菓子は作れないし、ムードもないし、ちょっと高いしパスだよね。
 砂糖、ハチミツ、水あめの類は問題外。
 他に甘い物って何かなー……あ、くだもの!!」
 
指折りながら考えていると自分ながら良い意見が浮かんで、思わず起き上がって両手を叩く。
が、すぐに笑顔は消えて、現実を思い出す羽目になった。
 
「………くだものって今の季節、ないし」
 
せっかく妙案が浮かんだと思った矢先の現実。
望美はプツリと糸が切れたように、また床に自身を寝そべらす。
その際、ゴンッという鈍い音と共に頭を打ち付けてしまう事になってしまった。
 
「〜〜〜〜〜ったぁ…!あー、もう私ったら最悪」
 
涙声と潤んだ瞳でキッと天井を見据えるが、頭の痛みはなくならない。
良い考えも浮かばない上に頭を打った自分が情けなくて、望美は右腕で目隠しをする。
強制的に暗くした世界の中、ぽつり呟いてみる。
 
「ヒノエくん…」
 
無意識に呼んだ、愛しい人の名前。
それは女の子にとっては何よりも心強い、最強の呪文。
事実、ただ彼の名前を口に出しただけで、望美の心の靄は大分晴れ、また「頑張ろう!」という気持ちが浮かんできたのだ。
ただ、計算外な事と言えば
 
「何だい、姫君?」
 
…………来る筈がない、愛しい人からの返答があった事ぐらいだ。
 
………
…………………
………………………………………
 
「………え!?!?!」
 
暫くの間の後、望美は右腕を即座にどかし、視界を広げる。
すると目の前にはいつのまにかヒノエの顔があった。
 
「ヒ……ノエくん?」
「そうだよ、姫君。望美はオレがわからないのかい?」
 
思わず呆然と名を呼んだ望美の髪を一房掬い取り、軽くキスをしながら茶目っ気たっぷりに返すその様。
間違えなく夫のヒノエであった。
 
(……勢いあまって、すぐに起き上がんなくて本当に良かった)
 
毛先にキスする夫を眺めつつ、望美は冷や汗を背中に流しながらそう思ったのは内緒にしておこう。
さすがに無意識とはいえ、大事な旦那様に頭突きを食らわせるのは忍びない。
望美がゆっくりと起き上がり出すと、ヒノエは髪を離して、ついと望美から身体を離す。
座り直してから望美はヒノエに向き合った。
 
「おかえりなさい」
 
まずは出迎えの挨拶。タイミングも少しズレてるし、本当に帰った時に出来なかったとは言え、
基本の挨拶(おはよう・おやすみ・おかえり・ただいま・いただきます・ごちそうさま等)は望美にとっての礼儀だ。
ヒノエも望美のそんな気性を知っているから、戸惑う事無く言葉を返す。
 
「ただいま、オレの花嫁殿」
「……は、早かったね」
 
「花嫁殿」という言葉を1年近く囁かれても今だ慣れないのか、望美は頬をかすかに桃色に染める。
だが幸せそうに笑いながら、ヒノエに言葉を返した。
 
「仕事は?」
「ああ、今日は早めに切り上げた」
「珍しいね?ヒノエくんが仕事を早めに切り上げるなんて…」
 
ヒノエの言った言葉に望美はかなり驚いた。
今の、日も頂点から下り始めたばかりの刻は余裕で仕事時間内だ。
ヒノエは軟派な所があるが、仕事に関しては真剣過ぎる所があるため、早めに切り上げる事は珍しい。
しかしヒノエは望美の滑やかな髪をまた一房手に取り、指先に絡めて遊びながら言った。
 
「愛しい姫君のためならエンヤコラ…ってね」
「え…?」
「…オレが気付いていないと思った?」
 
不意に、磨かれたナイフのような鋭い瞳で見つめられた。
鋭い、炎が滾るような強い瞳。それは熊野の頭領の名に相応しい瞳であった。
しかし望美は怯える事無く、その瞳を見返して小さく笑った。
それは吉報を知った子供が、他者に伝えようとして失敗したような「何だ、わかっていたのか」というような小さな笑い。
――――望美はヒノエの瞳の奥には、自分への愛情があるという自惚れがある。
      そしてそれが真実だとも、望美は知っているのだ。
 
「気付いていたんだ?」
「そりゃ、ね。オレがお前のことでわからないワケないだろう?」
 
そうふっとヒノエは優しく笑って、軽く絡めている髪に口付ける。
望美は擽ったそうに笑うと、ヒノエくんはすごいねと微笑んだ。
 
「今ごろ気付いた?」
「ううん、知っていたけど…でもすごいや」
「ふふ…姫君のお褒めに預かり光栄、ってね。
 で、望美。お前は何をそんなに悩んでいたのかい?」
「う、ん……」
 
望美はヒノエに素直に白状するべきかどうか思案し始める。
言ってもいいのだが、結局何も用意できなかった上に、どうせだったら驚かせたかったというのが望美の本音。
でも言わなければ…
 
「悩むって事はオレには言いにくい事、って事かな?」
「ひゃ…っ!」
 
予想的中、色仕掛けで口を割らされるだろう。
気付けばヒノエは望美の目前までその顔を近づけ、望美の瞳を覗き込んでいる。
唇が触れ合いそうなほどの間近で見つめられては、クラクラして思考も何も働かなくなってしまう。
こういう時、望美は「まるで濃厚な蜜を頭に注がれているよう」なんて思う。
望美は蜜が体全身に回る前に白状することに決めた。
バレンタインデーは女が男に酔わされるのではなく、女が男を酔わす日だから。
後ろに下がって、ある程度の距離を取ってから口を開く。
 
「今日、如月の十四日はね、私のいた世界では「バレンタインデー」って言って、
 女の子が好きな男の子にチョコレート…甘味やお菓子を渡して、想いを伝えることが出来る日なんだよ」
「へぇ…お前の世界では面白い行事があるんだな」
「で、私も何かしたかったけど…ごめんなさい!!
 ヒノエくんが好きなのに、何も甘味、用意できなくて…」
 
ガバッと勢いよく謝る。もっと早く気付いていたら甘味用意できたかもしれない、なんていうのはただの言い訳。
あまりの情けなさに視界が滲む。本当に渡したい相手が出来たのに、渡せないなんて自分がバカすぎて。
零れ落ちそうな涙をせき止めるためにギュッと目を瞑ったその瞬間、
望美はヒノエの腕の中にいた。
 
「……え?あ、れ??ヒノエくん??」
 
驚きで涙も引っ込んだのか、明澄になった視界でヒノエを見上げる。
望美を見下ろすヒノエの表情は照れたような嬉しそうな微笑。
 
「…嬉しいよ、望美」
「え?何で??お菓子とか用意できなかったのに…」
「だって、オレの事であんなに悩んでいてくれたんだろ?」
 
そう笑って、望美の瞼に軽く口付ける。望美の体がピクリと反応したが、拘束する腕は弛めない。
望美は赤くなりながら、ヒノエに反論を言う。
 
「でも、何も用意できなかったし…甘いもの」
「甘いものならここにあるじゃないか」
「え?」
「ここにあるだろう?オレしか味わうことが出来ない、極上の甘露が…」
 
そう艶やかに笑って、ヒノエは望美に己の唇を合わせた。
 
「んぅ……!!っふ…ヒノ…ぁ…っ…!!」
 
驚いて反論しようと唇を開けば、その隙間からヒノエの舌が滑り込み望美の舌を絡める。
舌を軽く食まれ吸われて、歯の裏をなぞられ…望美の口内を熱い舌が徘徊する。
ヒノエの巧みな手管にほだされて、望美はただ喘ぐことしか出来ない。
その喘ぐ吐息すら食らわれるような熱い口付けに、望美はただヒノエの背に腕を回して耐えた。
 
「っ……ふ…」
「んぁ……ぅ…………え、あ、ヒノエくん…!」
 
長くて深い口付けの後、しばし望美は呆っとヒノエを見上げていたが、気が戻ったのか真っ赤になる。
潤んだ瞳、火照った頬、濡れた唇が、艶かしくヒノエの熱を煽る。
 
全てがどんな物よりも甘い、ヒノエだけの甘露。
 
「ほら、甘い…だろ?」
「……ずるい」
「ずるい?」
「だって……バレンタインは女の子が男の子をドキドキさせる日なんだよ?
 私がドキドキしたって意味ないじゃない」
 
恥ずかしそうに俯いて呟く望美が愛しくて、ぎゅっと強く抱きしめる。
きゃ!と小さく驚きの声を上げる望美に気付かれぬよう、ヒノエは溜息をついた。
 
(気付いてないだろうとは思っていたけど、やっぱりね…
 オレがいつもお前にドキドキしてるって)
 
周りの水軍衆に揶揄されるほど、お前に夢中だと知ったらお前はどうするのだろうね?
溺れるほど、惚れて好いて愛して。
そんな自分が悪くないと思えるなんて。
 
そう考えてクッと軽く笑うと、望美が見上げてきた。
 
「? どーしたの??」
「いや…秘密」
「え、ずるい!気になるじゃない!!」
 
余裕ありそうに笑うヒノエの答えに望美は食いついたが、ヒノエは何処吹く風とばかりに笑うのみ。
むー、といじけて膨れる頬が愛しくて、軽く口付ける。
甘い、甘い口付け。どこに口づけても触れても、ヒノエには望美が甘く感じられる。
 
 
「それより、姫君。
 今日はバレンタインデーとやらなんだから、もっとオレに甘いモノを味あわせてくれるんだろうね…??」
「え…?」
 
望美の答えと同時に、ヒノエは望美を横抱きにして立ち上がる。
 
「ぇ、あ、きゃあ!!」
「おっと…暴れないでね、姫君」
 
望美の軽い抵抗もなんのその、とヒノエは足取り軽やかに部屋から出て歩き出す。
向かっている先は……
 
「こ、こんな早い時間から何考えてるのー!!」
「何考えてるって…もちろん、ナニだよ。わからないのかい?」
「ナニ、って……!ヒノエくんのエッチ、すけべ!!!」
「今日はバレンタインデーなんだから、甘いモノを食べていいんだろう?」
「へ、ヘリクツじゃない、それ!!」
「ふふ…ヘリクツも理屈のうちだよ、姫君。
 今日は思う存分、甘いお前を食べるからね。覚悟しときなよ……?」
 
耳元に囁かれて、望美の体が強張る。
しかし頬は赤く染まっていて、ヒノエの胸元に縋った手は甘えるように優しく握られる。
それから搾り出すような小さな声で、望美は呟いた。
 
「………………うん、わかった。覚悟、します」
 
恥ずかしそうに、小さく答える愛しい妻の髪に口づけてヒノエは笑う。望美もヒノエを見上げて笑った。
そしてそのまま、寝所の扉が閉められた。
 
 
蜂蜜、砂糖、水飴、唐菓子、異国の菓子
 
どんな物も敵わないほど、一番甘いのは君










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