「何でお前はピアノをやめたんだ?」

そう直球ど真ん中で聞いてきたのは歌い終わった幸之進だった。
いつも、と言うほどではないが、珍しいといえない位の曖昧な頻度で
海聖は幸之進の元にやってきて、彼の練習を見たり聞いたり、場合によっては手伝ったりする。
今日はそのたまたま手伝った日で、彼の歌にあわせてピアノを引き終えた途端に
浴びせられたその疑問に珍しく驚いたのか海聖は、常ならば妙なる調べを紡ぎだすその指先で不協和音を奏でた。

「は?何よいきなり」

その不協和音に被せる様に、怪訝そうな表情と声音を隠そうともしないで海聖は幸之進を見上げる。
幸之進はそんな表情に怯む事無く、己の感じている事そのままを言葉にした。

「だって、お前、かなりの腕持ってるじゃねぇか。普通に考えてプロにしろアマにしろ、こっちの方でやっててもおかしくないだろ?」
「そこまで上手くないでしょ、私」
「お前、それ本気でいってんのか?」

その問いに答えずに海聖は視線を逸らし、鍵盤を見つめた。そして一音を奏でる。
高く、細い、けど力強いその音が音楽室に吸い込まれてから、呟くように言った。

「……音楽ってさ、追い求めるものだと思うのよね。水の月っていうかさ、捕まえても捕まえられないもの。
 別に音楽だけじゃなく、運動とか芸術とか……理想、というヴィジョンがあるジャンル全部がそうなんだろうけど」

そう呟き終わると海聖は黙り込み、手を鍵盤から一度浮かせると、ゆっくりと、しかし激しい旋律を奏で始めた。
その調べに釣られるように、海聖はまた言葉を溢す。

「そりゃあ小さい頃はそれを追いかけていたわよ。けどね、一回、理想…や、憧れとか理想とかなんて一言で言えるものじゃない
 そんな私の音楽の全てを目の前に突きつけられたのよね」

指は縦横無尽に白鍵と黒鍵を駆ける。
幸之進は黙って、ただずっと何かにとり憑かれたように演奏をする海聖を見ていた。

「もう衝撃も衝撃。きっと私、世界が壊れたってあんなに驚かないと思うわよ。
 だって、私の音楽、私の目指す全てがその彼から紡がれてたのよ?
 嬉しい、哀しい、悔しい、愛しい―――もう感情と言う感情が渦巻いて、狂うんじゃないかと思った。
 きっと私が力があって大人だったら、その場で犯しながら殺してたかも知れない。
 愛憎紙一重ってこの事かぁって思ったもの、幼心でも。
 そんな事があったから、ピアノを純粋に出来なくなったのよ。
 だっていくら真剣に弾こうとしても、どうしてもあの音に囚われちゃうんだもん。
 私の音のはずなのに、彼の音を目指してるの。それって彼にも失礼だし、自分でもすっごい嫌なのよ?そうね、言うならば…」

最後の一音を甲高く、まるで声にならない人魚姫の悲鳴のように哀しい音を響かせて、
海聖はお伽噺の幸せな最後に描かれるお姫様のように微笑んで言った。

「満足しちゃった、って感じ?」

その幸せそうな毒々しい微笑みは、幸之進の理不尽そうな不満顔すら飲み込んでしまった。







up/2006/08/23



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