―――わかっていた。
   天から舞い降りた天女や、月から下ったかぐや姫、
   彼女らがいつの日か、天や月に戻ることなんてわかっていた。


わかって、いた、んだ――――――









ザザーン…ザザ…ーン…


熊野を常に包む海鳴りが、今宵もまたヒノエの耳元に入る。
一人で酒盛りをしていたヒノエはその音に耳を傾けるが如く、
そっと朱塗りの杯を置き、寄りかかっていた柱に持たれかかり、瞳を閉じた。

ザザーン…ザザーン…ザザーン…

海鳥が眠りこけている宵は、昼よりも一層優しく波音が耳元に響く。
それはまるで穏やかな眠りをもたらす子守唄のように、神々が坐すこの地を包むのだ。
ヒノエはしばしそれを堪能するように身動き一つせずに聞いていたが、やがてゆっくりと瞳を開けた。
炎に似た紅の瞳が、濃藍の夜空を映す。
夜空を飾るのは、幾千もの数え切れない星々と、大陸から渡ってくる黄玉のように輝く、円を描いた月。
その月を瞳に映すと、ヒノエはフッ…と瞳を柔らげて視線を外し、杯を手にした。
杯の中を中ごろまで満たしている酒を一息で呷る。
それから近くに置いてあった酒瓶を取り、手酌をする。
すぐに透明な色彩を持つその酒が、杯を満たした。
ふと杯を見ると、朱塗りに浮かぶは月輪。

「………まーだ、オレは忘れられないのかねぇ…………いや、忘れられるワケ、ねぇか」

そう呟いた、吐息のような囁きは、杯の中に浮かぶ月を揺らす。
しかし、すぐにクッと低く喉で笑い、切なげに揺らした瞳で月を仰いだ。

決して手の届くことの無い、果ての果てに存在する月に、左手を伸ばす。
ただ手を掠めるのは、海から流れる風のみ。

「神子姫と…同じ、だな」

龍神に選ばれた同い年の少女。
花のようでいて、しかし剣のような強さを持った、奇跡のような女。
この国の、世界の全てを探してもいない、ただ一人……掴む事の出来なかった、ヒノエが愛した姫君。

「わかって、いたのに…な」




御伽噺の終わりはいつも同じだ。
天女は羽衣を見つけると
かぐや姫は月の使者が来ると


へ帰る。

を残して。



それでも、ヒノエは愛してしまった。願ってしまった。

『オレと共に生きてくれ』と。

―――しかし、神子は御伽噺と同じで、


へ帰った。

ヒノエを残して。



彼女が居たら女々しいと笑うだろうか?
このように明るい月夜、ただ手に入る事の無い姫を思い、酒盛りをする男の事を。
だが…

「これぐらいは許してくれるよな……望美?」

そう呟くと、ヒノエはそっと、まるで愛しいあの神子姫に口付けるように杯に口付け、ゆっくりと杯を傾けて、
水面に浮かぶ月―――彼女の名を持つ、完全な欠けた所の無い月を映したその酒を、一滴残らず飲み下した。
そして月を、彼女の名を冠すその月を見上げて、優しく笑う――――愛しい、姫君を見つめるかのごとく。


月はただ悠然と夜空に浮かびながらも、その優しい光は、まるで彼女の微笑みのように、ヒノエを照らすのであった。











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