『コレをやるのだ』

 

そう笑顔で渡された楽譜

それはこのコンクールでようやく慣れてきた音楽の知識だけでも読めるほど、簡単に作られていて、

それがどういうものか、一目見ただけで理解できた。

 

『お前の奇跡を見せてくれ』

 

そう綺麗なもの―――この世に音楽を広めるという、純粋かつ真摯な願いしか持たない笑顔で見つめられた私は

 

その願いと笑顔と、自らの想いから目を背けた

 

 

 

それから時が過ぎ、はじまりの季節へと元に戻りつつあった。

時は初春―――まだ肌寒いが、すでに春の柔らかな優しさも漂う3月。

本日だけ日の目を見る、校門前に立てかけられた看板には『星奏学院 卒業証書授与式』という文字。

 

―――――そう、本日付で今年度の3年生は卒業する。

 

 

 

 

近年例を見ないほど涙々であっただろう卒業式の後、香穂子は屋上に来ていた。

もう暦の上では春と言えども、まだ冷たい風が吹きすさぶ屋上に来る物好きなどは香穂子のみらしく、

全体的にざわついている校舎内の中、ここだけは常通り静かであった。

香穂子は風見鶏―――以前はファータの店が開かれていた付近に、ただ佇んでいた。

キィキィと細い音を立てながらくるくる回る風見鶏。その音が鳴るたびに、香穂子の長い赤茶の髪も舞った。

風が止むと、その髪は制服の上に納まる。その制服の色は、以前と違い純白の色。

 

日野香穂子の今年度は実に忙しいものであった。

星奏学院の普通科に入学し1年、学園生活にも慣れ、学年も上がり、

「受験前の遊べる時期だ、遊ぶぞー!」と意気込んだ矢先に出会ったのは音楽の妖精。

彼らの強い希望により、香穂子は魔法のヴァイオリン片手に、内外に評判の高い学内コンクールに出場することになる。

ピアノも満足に習った事ない香穂子はコンクール序盤はそれは酷い演奏をしたものだが、中盤からその妖精たちも祝福する才を発揮し、

魔法のヴァイオリンが壊れて、普通のヴァイオリンになってもその才を余すことなく他者に披露し、

結果、普通科・素人というハンデを乗り越え、総合優勝の座に輝いた。

そして学校側はその才をこれで潰えるのを惜しんだ為、香穂子に普通ならありえない「音楽科編入」を持ちかけた。

元々、この学内コンクールには「総合優勝者は将来、音楽界で成功する」というジンクスがあるほど、ハイレベルなコンクールだ。

たとえ妖精の助けがあったとはいえ、それだけで優勝できるほどこのコンクールは甘くない。優勝は香穂子の才が本物である証だ。

香穂子もこのコンクールで、今まで触れた事のなかった音楽に触れ、その世界に魅せられていた。

両親や友人、コンクールでできた仲間など、様々な人に相談して、香穂子は音楽科編入の道を選んだのだ。

他の面子と比べれば随分遅れたスタートだったが、2年が終わる頃になって、ようやっと香穂子は音楽科に馴染み始めた。

常に手にする楽器、楽典や楽譜、それに音楽科の制服。

―――――1年の時を経て、香穂子はやっと、土浦を除くコンクール参加者達と同じ土俵に立っている。

 

 

香穂子は手に持っていた楽譜を眺めてみる。

それはコンクール終了間際にリリに渡された楽譜―――愛の挨拶の譜面だ。

そう、それは昔、この学院に起こった愛の奇跡のキーアイテムとも言える楽譜だ。

香穂子はそれを手渡されていた。

だが、香穂子に付随した評価は前述したもの以外はない。

何てことはない。

 

香穂子は音楽の奇跡(ヴァイオリン・ロマンス)を起こさなかった。

 

それだけだ。

 

 

妖精たちの魔法がかかっているのか、譜面読みしただけでもすぐに弾けるような感覚。

きっとそれは錯覚ではないだろう。だってこの音楽は、奇跡を起こすためのものだから。

香穂子は足元に置いてある鞄に楽譜を仕舞い、そして鞄と同じく置いてあったケースからヴァイオリンを取り出す。

それを構えて、数回鳴らしてから、愛の挨拶を弾き出した。

 

青い空に吸い込まれていく、奇跡の欠片の音。

 

数フレーズだけ弾いて、香穂子の弓は止まった。

 

「……ダメだ」

 

譜読みはしたことがあるとは言え、

初めて弾いたとは思えないほど、綺麗な音が出ていた。

だが、奇跡は起こらない。もう。

 

 

あの時―――コンクール後に弾けば、奇跡は起こっただろう。

愛の挨拶を弾いて、彼が来て、告白をされるかするか…そんな未来があっただろう。

だが、もう奇跡は起きない。

夢は覚めた。覚めた夢は二度とこの手に掴めない。

 

 

「……ダメだな、私。今更、悔やんだって…無駄、なのに」

 

そっと俯くと、視界がぶれて何かが零れる感覚。

コンクリートに滲んだ、涙。

後から後から溢れるそれを止めることはできない。

 

 

香穂子は彼を選べなかった。

彼の立場や自らの立場、周りの評価、それら全てと、自らの愛を秤にかけて、香穂子は自らの愛を捨てた。

わかっていた。虫のいいことだとは。

それでも、都合のいいこととわかっていても、

奇跡を信じてみたかったのだ………。

 

本日付けで卒業し、星奏の大学に進学しなかった彼と、香穂子の繋がったものはもう切れた。

いや、本当に切れたのはコンクール終了したあの時、奇跡を起こさなかった時。

それでも香穂子は音楽に、彼に近付こうと春夏秋冬、追い続けた。二度と彼へと続かない道をひたすらに。

香穂子は流れる涙を拭う事なく、弓を構えた。

楽器に涙の雫が当たらないようにか、潤む瞳で虚空を見据えて、奏ではじめる。

弾き奏でるのは、最終セレクションで弾いた曲。

技量はその頃より上がっていたが、キリキリと痛みを伴う音色は、聴く人に選っては堪えがたいほど不快に思うだろう。

 

身勝手で、傲慢で、切なく悲しい

 

誰もいない屋上に響いたそれは、香穂子の彼へ抱いた愛情の残滓。

もう、どうにもならない。

 

『あの時にもう少し、勇気を持てれば』

 

そんな想いも音に乗せて、蒼空へと散らばらせた。

 

 

 


一通り、心が命ずるまま、曲を弾き散らすと、香穂子は弓とヴァイオリンを下ろした。

ハァハァ、と荒く息をつき、凝り固まりかけている首をぐるりと回す。

見上げれば、青い空。奇跡を自ら葬り去った日と同じ、青い空。

不思議と、涙はもう出なかった。目元は痛いが、心の痛みは治まったようだ。

―――もちろん、まだ、完全には癒えていないが、きっと癒すことはできる。そんな疼き。

香穂子は青空をしばらく見つめて、ふっと笑うと、ヴァイオリンを構えなおした。

そして、精神統一をして、静かに弓を滑らせる――――――

 


 

 

「………」

「? 柚木ー、どうしたんだ?」

いきなり立ち止まった親友に、火原は振り向いて声をかけた。

見ると柚木は、顔を背後―――自分たちが巣立ったばかりの校舎に向けている。

どこを見ているかまでは、火原にはわからなかった。

「柚木、どこ見てんのー?」

ひょい、と彼の肩先に顔を乗せるように近づけば、いつも冷静な柚木にしては酷く取り乱したように驚いた瞳が見られた。

だが、それは一瞬のことで、すぐに柚木は常通りの穏やかな微笑を顔に浮かべていた。

「いや…今、日野さんのヴァイオリンの音が聞こえた気がしたから」

「日野ちゃんの?」

周りを見渡しつつ耳を澄ましても、聞こえるのは風に揺れる木の囀りと、

遠くから聞こえる生徒たちのざわついた声だけで、楽の音は耳に入らない。

だが、火原はその事を言わず、卒業式の時に香穂子がコンクール優勝者として弾いた、門出の祝いの特別演奏曲について話し出した。

「日野ちゃんって言ったらさ、今日の特別演奏すっげーよかったよね!何、だっけ…あの曲……賛美歌って言ってたっけ?」

「確か「賛美歌403番」ってパンフレットに書いてあったよ。素敵な演奏だったよね」

「うん!卒業式だけどしんみりしてない感じがよかったよなー、ああやって後輩が俺たちの門出を祝ってくれるって嬉しいよな」

そう笑うと、火原の笑みに同意するように柚木も笑う。

「うん、そうだね。…もしかしたら、その音が耳にまだ残っていて、聞こえた気がしたのかも知れない」

そう、呟くように火原に言う柚木の表情はどこか寂しげで、火原は柚木に何ていうべきか一瞬戸惑った。

柚木はそんな火原に気付き、別の話を持ち出す。

「あ……ここで長話しても迷惑だよね。そろそろ、打ち上げ会場に向かおうか。駅前通りの…どこだっけ?」

「え、あ、えーと、和風レストランの四条大宮だよ…ってもうこんな時間!?やっべ、皆待ってるかも!!」

腕時計を見て、ぎょっとした顔をすると、火原は急いで校門を抜ける。

柚木は卒業しても変わらない親友の慌て振りにそっと笑みを漏らすと、

「火原、待って。あまり走ると転ぶよ」

小走りに火原の後を追い、校門を潜った。

2人は後ろを振り返ることなく、星奏学院から巣立っていった。

 

 

2人を見送るように、2人の門出を祝うように――――

最後の別れを告げるように、屋上からずっとその音は柚木の耳に響いていた。

 

 

 


神ともにいまして 行く道を守り

天の御糧もて 力を与えませ

 

また会う日まで また会う日まで

神の守り 汝が身を離れざれ

 

 

 

香穂子の柚木への想いは奇跡にならなかったが、

今、まさに奇跡が生まれていたことは、香穂子も柚木も―――――誰も知らない。


後書き
2006年夏の一人祭り企画『歌姫方に花束を〜Diva from Adult Soft〜』フリー配布作品。現在は配布終了。
PCゲーム『グリーングリーン(GROOVER)』の美南 早苗ED曲・星空(歌/佐藤裕美)の
「もう少し素直になれれば きっと可愛い女の子になれたのに」からイメージ。
星空は『グリーングリーンオリジナルサウンドトラック』、佐藤裕美テーマソングコレクション『Sugar kiss』に収録されています。






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