その日、狭倉海聖のクラスの6時間目は、担任でもある若王子貴文教諭の担当教科でもある化学で、
実験のため2階の教室ではなく4階の化学室で授業を行い、
また担任の呼び掛けで移動教室の時に生徒達は手荷物を持って化学室に向い、本日はそのまま化学室でHRまでを行った。


これはそんな日の放課後の話である。


いつもと違う教室で行うHRに生徒達は多少落ち着かなさそうに騒いでいたが、
そんな些細なことより放課後が待ち遠しいのか教師の注意を促すほどではない。
まぁ、元々担任である若王子は、その手のことに関しては寛容というか……
無頓着な気質があるので、よほどの事がない限り注意をしたりなどしないのだが。
いつも通りの流れでのんびりとHRを終え、最後の号令をかけるのは通常なら日直なのだが、今日は場所のせいか若王子がするようだ。

「起立ー………えーと、気をつけ、でしたっけ?なんで気をつけるんでしょうねぇ……
 あ、知ってますか?仏教校の場合は「起立、合掌」だそうですよ?
 ではキリスト教校の場合は「祈祷」とかなのでしょうか?誰か知ってます??」

などと若王子らしい脱線をしている最中、ソロリソロリと鞄片手に教室から出て行こうとする不届きな生徒がいた。

「あれ、狭倉さん?まだ先生、号令をかけてませんよ?」

と若王子が声をかけると、扉に手をかけたまま固まったのは呼ばれた通り、狭倉海聖その人だ。
また他の生徒達がその若王子の言葉に釣られるように、扉に手をかけている海聖を振り返って見る。
気付かれた!というようにバツの悪い顔を浮かべてから海聖は、

「…………!! ごめんなさい、先生!!ちょっと急いでるんで!!!!」

と言い捨てて、ガラッと思い切りドアを開けて、廊下に躍り出ると

「さようなら先生ーーー!!!!シン、クリス、はるぴー後、ヨローーー!!!!!!!!」

という言葉と廊下を駆け抜ける音だけを教室内に滑り込ませた。
呆気に取られる他の生徒を尻目に、若王子は考えるように視線を泳がせつつ

「……狭倉さんは急いでいたのでしょうか?」

と海聖の言葉をそのまま口にして、

「何か知ってますか、針谷君、西本さん、クリス君?」

と視線をその3人―――3人とも同じ班にいたのでその一箇所を見た。
1人抜けた(その1人は海聖である)班に残った3人、針谷幸之進、クリストファー・ウェザーフィールド、西本はるひは苦笑を浮かべながら口を開いた。

「えーと、そりゃあ、まぁ……」
「理由を知ってるってーんなら、知ってるし……」
「知らへんと言えば知らへんし……」

はるひ、幸之進、クリスの順でなんともいえない答え?らしき事をを言い、クラスメイト達は首を傾げた。

「確実に一ついえるんは、まぁウチらには関係ないって事くらい?気にせんほうがえぇって」

はるひがいつも通りの笑顔でそう纏めたが、クラスメイト達がそれで納得するか!と内心ツッコむ。しかし―――

「そうですか、わかりました」

という最強天然の担任の言葉で、理由を知っているらしい3人を除いた全員は、あまりの担任のおおらかさに残らず机に突っ伏した。




海聖は4階を駆けていた。横目に流れていくのはHR中の3年生のクラス達。
廊下を思いっきり走っていたが、海聖は体躯が小さく、また細さそのままの軽さだったためか、音があまりしない。
だから教師が気付かれる事無く、当然注意のための足止めという事もなく、海聖は走っていた。
だが、そうは問屋が卸さないらしい。

「!? わっ!?!」
「!? げ…」

階段へと向う曲がり角でぶつかりかけた相手を見て、海聖は驚きの次に嫌そうな声を出した。
そう、その相手は教師の次に会いたくない人物だったのだ。

「氷上……」
「は、狭倉か?」

そう運が悪いことに、風紀委員の氷上 格であった。
驚いたような顔をした後、氷上の海聖を見る目が険しくなった。

「狭倉君……今、君は廊下を走っていたな?」
「氷上、ごめん。今急いでるの、お説教は後にして」

しれっと言われた言葉を聞いて、氷上のこめかみがひくついた。

「ほほぉ………後とはいつだ?」
「んー……卒業式までとっといて、つか捨てといて」
「狭倉、君はどうしていつもいつもそうなんだ!!?!?」
「氷上、廊下で叫ぶのはいいんだ?」

そう入れられた茶々に氷上は言葉を詰まらせ、自分を落ち着かせようとしているのかゆっくり息を吐き出すと、

「……ちょうどいい、風紀室でじっくり健全な学生生活について語り合おうじゃないか」

と言い、ガシリと海聖の腕を掴む。
だが海聖は軽くそれを振り払い、注意を蹴り飛ばす勢いで走り出した。
氷上はまさか一回の抵抗で自分の拘束が解けると思わなかったのか、反応が遅れたのだ。
だが、その隙に海聖は速やかなスタートダッシュを行い、氷上との距離を開かせた。
また氷上の足と風紀委員の誇りからすれば、まず確実に海聖に追いつくことが出来ない。

「狭倉………廊下は走るなーー!!!」

海聖の背中に追いついたのは、その風紀委員らしい怒号だけであった。




氷上の注意もなんのその、と二段飛ばしで階段をかけ降りる。
バタパタパタ、と軽やかな音に似合わない爆走っぷりだが、小回りを利かせて人が呆気にとられている内に横を通りすぎていく。
だが三階と二階の踊り場から二階へ降りようと踏み出した途端、海聖の足は空を踏んだ。

「!?……あわ?」

驚いたにしては押し殺された悲鳴と、状況が把握したにしては間抜けな呟きを御者にして、
海聖は階段からその身を投げ出す。と目撃者がいたならば、誰もがそう考えるその時―――
同じく踊り場にいた長身のシルエットが、素早く動き、海聖の転落を防いだ。
その長い右腕は海聖の細いウエストにしっかり巻かれ、掌は勢いでか腰とも尻とも判断がつきにくい場所に置かれている。
もし海聖が通常女子生徒で、助けたのも一般男子なら、助けた男子も、助けられた女子もセクハラだの不可抗力だので一悶着あっただろう。
だが生憎、海聖は自らの容姿の割にはその手の事には無頓着な上、また助けたのも………

「え、竜子姉さん…?」
「全く……もうちょっと、考えたらどうなんだい?」

羽ヶ崎が誇る無敵の姉御、
男子なんかよりもぶっちぎりで「かっこいい」という言葉が似合う、と専ら評判の藤堂竜子であったので無問題だ。

「バランス崩すんじゃないかと思った途端、これだからな……スピード超過だよ、海聖」
「あ、あはは…ごめん、ミスっちゃった」

そんな話をしながらも、海聖が軽いのか、竜子がしっかりしてるのかわからないが、人一人支えても、竜子はびくともしなかった。
左手で掴んだ手摺の方に竜子は体を寄せて、安全な場所に抱えた海聖を降ろす。

「それにしても、アンタ軽すぎじゃないか……?ちゃんと食べてるかい?」
「そりゃ食べないと動けないから食べてるよ。あ、姉さん、危ない所をありがとね」

そう言って、ペコリとお辞儀をする。
竜子はそれを見て、まるで小さな妹の頭を撫でるように海聖を撫でた。

「急ぎでも気をつけるんだよ。わかったかい?」
「うん、わかった」
「そうかい、じゃ、行っといで」

ぽんっと海聖の背中を押し、竜子は女性にしておくにはもったいないほど格好よく微笑み、
また海聖は、恋する少女もここまで美しく微笑まないだろうと思うほどに愛らしく微笑むと、また階段を下り始めた。




既にHRが終わってる時刻な為か、生徒達がひしめく廊下を海聖は縫い縫い、とあるクラスまでたどり着いた。
そしてドアを開けながら声をかけた。

「佐伯いるー?」
「佐伯君ならいませんよ」

だが返ってきた声は高く、また目的の人物ではないが聞きなれた声であった。
教室の中を覗くと、そこには

「あ、お千代ちゃん」
「こんにちは、狭倉さん」

海聖以上に小柄な少女、小野田千代美が箒を片手に立っていた。どうやら教室掃除の当番のようだ。

「佐伯君ならHR終了と共に教室から出て行きましたよ?何か急いでいたみたいですけど……」
「くっそ、アイツ逃げやがったな……どこ行ったかわかる?」

その言葉に千代美の首は横に振られた。

「いいえ、そこまではわかりません」
「そっか、ん、わかった。ありがと、お千代ちゃん」

そうして海聖が方向転換すると……

「こんにちは、海聖さん」
「うわぁっ!?!?!?」

満面の美麗な笑みを浮かべた水島 密嬢が鼻先にいた。
いや、比喩表現ではなく、本当に。あんたらレズですか?といわんばかりの近さである。
もし海聖が振り返りつつ一歩踏み出してたら、事故チューシステム発動していただろう。
生憎、叫びながら海聖は後退ったため、そのような事態にはならなかったが。

「み、みみみみ水島………な、何か用?」

柄にもなく冷や汗をダラダラ流しながら、海聖は密に話しかける。
密はそんな海聖を気にする事無く、うふふと、お嬢様然とした笑みを浮かべる。

「佐伯君なら昇降口に向ったのを見たから、お教えしようと思って」
「あ、ありがとう……じゃ、これ」
「海聖さん」

逃げようとした手をがっしりと掴まれ、海聖の喉がひぃっ!と鳴った。
海聖と密の間にはそれなりに距離があったのに、いつの間に密は海聖の隣に詰め寄ったのだろう?気配も何もなかったのに…
と一部始終見ている千代美は思った。無論、真面目な千代美らしく、持っている箒は左右に動いて、塵芥を集めている。
熱っぽく潤んだ瞳と男子には毒としか言い様のない扇情さで、海聖に詰め寄る密。
だが詰め寄られている海聖はなるべく顔を合わせない様、そして近づかせないように必死に不自然な姿勢を取っている。

「今度一緒にお買い物に行きましょうね♪」
「え、あ、はい……わかりました、わかりましたから………〜〜〜っ!!」

我慢の限界か、海聖は無理やりに密の腕から逃れ、

「佐伯追いかけてるからごめんーーーー!!!!」

という捨て台詞と共にマッハの速さで廊下に出て、駆ける。
もう周囲の人間を避ける余力もないのか、暴走に巻き込まれて悲鳴を上げる生徒も数人いた。
密はうっとりと、先ほどまで海聖の手を握っていた手を頬に当て

「海聖さん……」

と呟いた。状況を全て無視すれば、絵にして残しておきたい姿だ。
ちなみに千代美は淡々と掃除を行っていて、ゴミ捨てに行っていた。




昇降口に来て靴を履き替えた海聖は、佐伯のクラスの下駄箱付近にいた。
佐伯の事だから昇降口に行ったと見せかけて、校内に残って暫くしてから下校する可能性があると踏んだからだ。
とりあえず下駄箱を見れば校内に残っているか否かがわかるので、どれが佐伯の靴箱かと探していると

「どうした、狭倉」

と頭上から低い声と、暗い影が降りた。海聖は振り返る事無く、頭上を仰ぐと

「あ、志波のアニさん」
「………」

志波勝己がそこにいた。数秒、ぼけーっと海聖と志波は見詰め合って(?)いたが、
海聖が志波が口を開かない理由が答えを待ってるからだ、と気付き、振り返って横にずれた。

「や、ちょっと佐伯探しててね。知らない?」
「…………何やったんだ、お前?」

先ほどまで海聖がいた所に詰め、下駄箱から靴を取り出して履き替える志波に海聖は

「あー、んー……ちょっとしたヤボ用……?男と女の勝負の話さねっ!」

といい、再度「アニさんは知らない?」と問う。志波は靴を履いた爪先を整えつつも、ボソリと
―――基本的にこの男はハキハキと喋ることは少ないのだが、言った。

「………裏門から帰る、と言っていたぞ?」
「マジで!?サンキュ、アニさん!愛してるーーー!!」

ガバリ、と志波の背中に抱きついた。
そうはいっても、身長差があるため、抱きつくといっても見た目、テーマパークの着包み役者に抱きつく子供そのままである。
それから志波への感謝の念を叫びながら、軽やかに海聖は目的に向って走っていく。
志波は暫くその後姿を見ていたが、溜息を一つついて、上履きを靴箱に押し込めた。




裏門近くで海聖は目的人物―――羽ヶ崎学園の王子・佐伯 瑛を見つけて、声を上げる。

「テルーーーー!!逃げんなこらーーー!!!!」

その言葉に弾かれたように振りむいた佐伯は、あからさまに驚きと嫌そうな顔を表わした。
そしてそのまま走り出しながら答える。無論、海聖も走ったままだ。

「お前、何でここが……ってかHR……テメ、サボりやがったな!?」
「逃げたアンタに説教される筋合いないわよ!!男に二言はないんじゃないの!?卑怯じゃない!!」
「逃げる?ハッ、これは明日の為の有意義な撤退と言ってもらおうか!」
「それ逃げるってーんだろーが、テルテルボーズ!!」
「テメッ……!!お前だって名前、男みたいだろーが、人様の名前にケチつけんな!!」

その言葉に、海聖は勝ち誇ったように胸をそらした。

「お生憎様、私、自分の名前好きよ?音も字面も。どこぞの魔法使いとは違うのだよ、魔法使いとは」

しかし佐伯はその言葉に答える事無く、一言。

「………お前、本当胸ないな」

その一言は海聖をキレさせるのに十分だった。

「……………テル…乙女の純情傷つけやがったな、この待ちやがれーーーー!!!!!」
「誰が待つかっ、今月金欠なんだってーの!!!」



ぎゃあぎゃあと、高校生活を謳歌する2人を見て噴出すように、高らかに学校のチャイムが響いた。




up/2006/08/02


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