夏が近づいてきている5月の下旬、放課後の図書室の一角に狭倉 海聖はいた。
人が滅多に近づく事のない、奥の閲覧コーナーで、数冊の本を置いて海聖は本に読み耽っている。
古ぼけた分厚いその本は、図書館にいた年数にしては痛みが少ない。
見るからにお堅い、と主張する本なので、きっと生徒や教師の手に取られたことは稀なのだろう。
分厚い上に開かれ慣れていない本を、読むのが難しいのかかなり真剣に本に向き合っている。
だから声をかけられるまで、目の前に人が近づいていた事に気づかなかった。
「狭倉はん、ここ座ってもええ?」
そのはんなりとした声で、海聖は本と向き合っていた顔を上げた。目の前には柔らかに微笑む、金髪の美青年の姿。
「クリス……なんでここに?」
その問いに、クリス―――この春、羽ヶ崎学園に留学生としてやって来た時の人、そして海聖のクラスメイトである、
クリストファー・ウェザーフィールドはやんわりと笑みながら話し出す。
「勉強しようと思ってここに来たんやけども、出入り口付近にいると騒がれて勉強でけへんのや。
 で、中のほうへ言うてみたら狭倉はんがいたから、声をかけたんや」
「ああ…ここまで来る人って珍しいもんね」
「随分と熱心に読んでるみたいやったから、邪魔になるなら他の所に行くけど、どうすればええ?」
「いや、私は趣味で読んでるだけだから別にいいよ。なんなら私が別の場所移動するけど?」
「ええよ、お構いなく。というかいてくれた方が助かる」
そう言って、海聖の向かいの席に座ると、クリスは手に持っていた教科書を海聖に見せた。
「古典なんやけども、ボク、苦手やし、狭倉はんが教えてくれると助かる」
「あ、なるほど」
古典―――というか国語全般は海聖の得意科目だ。よく授業中にクリスの何気ない質問にも答えているため、クリスもそれを知っている。
「ちなみに何やってんの??」
読んでいた本を閉じ、隣に積まれた本の一番上に置くと、海聖はクリスに聞いた。
クリスは教科書を睨みつつ、その問いに答える。
「えーと、まん…よう、シュウ?のワカの解読。先生にワカやるとええって言われたんや。
 これとこれはわかったんやけども………これから先がさっぱりわからへんのや」
と困ったように笑って、わからない箇所を指差す。
海聖は少しクリスの方に乗り出しながら、その箇所を読みあげる。
「あー、多摩川にさらす手作りさらさらに……か。どこがわかんないの?」
「ここ。なにそこの児のここがかなしき、ってなってるだろ?何で悲しいのかわからへん」
「あー…クリス、それ解釈ミス。悲しいんじゃなくて、愛しい……Dearの意味で解釈するの」
「Dear……?でもかなしいって……??」
「昔の言い回しで愛している事をかなしいって言うの」
「へぇ……」
感心したように溜め息をつくと、クリスは和歌を見ながらもノートに解釈を書き込んでいく。
「これでええん?」
と差し出されたノートを見て、海聖は笑った。
「うん、あってるよ」
「ほんまに!?」
パアッと明るい笑顔で笑うクリスが微笑ましくて、海聖も思わず綻びる。
「ついでだし文法もちょっとやろっか?」
「え、ボクは助かるけど、狭倉はんは平気?時間とか」
「うん、別に暇だし構わないよ。これの場合、序詞が……」


そうしてクリスが解らない問題を全て教え終わったのは半時間ほど経った後だ。
「はい、おつかれー。でもクリス相変わらず頭の回転速いなー、教えるこっちがすごくラクー」
「狭倉はんの教え方が上手いんよ。でもほんまに助かった。おおきに」
にこにこと互いに笑いあう。と、クリスはちょっと…いやかなり身を乗り出してきて、海聖に口付けるのかと思うくらい顔を近づけて聞いた。
「そいや、気になっとったんやけども、ボクが来るまで何読んでいたん?」
「クリス、顔近い」
クリスの行動に驚くことなく冷静にツッコミをいれる海聖の顔を見て、悪戯が失敗した子供のように笑うと、クリスは隣に積まれていた本を見る。
「見てもええ?」
「いいけど……タイトル読める?」
後ろに下がることで距離を取って、海聖は積まれていた本の一番上を手に取り、容赦なくクリスの顔に押し付ける…というかぶつける。
それなりに重く硬い本に額を殴打されたクリスは、声を上げて涙目で海聖に文句を言う。
「狭倉はん、酷い……ぶつ事ないやろ?」
「先に行動したのはクリスでしょ?こーゆーの自業自得、っていうのよ。覚えておけば?」
笑いながらしれっと酷いことをいう海聖に困ったように笑うと、クリスは渡された本を見て
「…………………さっぱり読めへん」
と呟いた。あー、うー、だの唸りながらタイトルを読もうとするクリスを見て、してやったりとばかりに意地の悪い笑みを浮かべる海聖。
それからすっと手を伸ばし、クリスがにらめっこしているその本を取り上げながら言った。
「りょうじんひしょう、って読むの。万葉集より後の古典作品ね」
本をパラリ、と捲って、クリスに読み聞かせるようにとも、また己の為とも取れるように、読み始めた。
「……遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけむ 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」
まるで歌うように、音の調子がいいそれを一つ読み上げると、海聖は視線をクリスに合わせて淡く笑んだ。
「どう?」
「………音が弾んでて、ワカにしてはオモロイなぁ……どんな意味なん?」
「遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。
 遊んでいる子供の声を聴いていると、私の身体さえも動いてしまう。…かな、直訳すると。
 ちなみにこれは和歌じゃなくって、今様っていう編纂……作られた当時の流行歌。だから和歌とちょっと雰囲気違うでしょ?」
クリスはその説明に納得したように頷く。
「五限の日本史で、便覧パラ見してたら目について………梁塵秘抄って国語の便覧とか古語辞典には載ってないからさ、図書館来て読んでるワケよ」
そう笑いながら説明すると、『私はまだここで読むから』と言うように本に意識を傾ける。
だが、クリスは席を立つことなく頬杖をつき、読み始めた海聖をじぃ〜〜〜っと見つめ出す。
………数分の沈黙の後に根を上げたのは海聖だった。
「…………何?」
「何、って?」
「や、終わったなら出てくなり、本読むなりしなさいよ。何で私見てるの?」
「別にかまへんやろ?それとも何、狭倉はん、ドキドキする?」
「居心地悪い」
容赦なくクリスの発言を一刀両断して、それから言った。
「読みたいの?」
その発言を聞いて、品がよく微笑むクリス。
通常の羽学生徒なら絶叫ものの笑顔に見つめられ、海聖は盛大に溜め息をついた。
「詠め、ですか………」
「よろしゅう」
否定せずににっこり笑うクリスに、海聖は自分の左隣の椅子を引いて、こっち座れと言外で示す。
クリスはそれに従い、海聖の横へと移動する。
さら、と彼の柔らかな金髪が海聖の視界の横に溢れ落ちる。
海聖はそれに気付かずに、クリスにも見れるよう、本の左半分をクリス側に寄せる。
「詠んで欲しいのあったら言って。さすがに全部はキツいから」
「んー……じゃあこれ」
その言葉を受け、遠慮なくクリスはそのページにあった一つを優雅とも言える動きで指差した。
その先に書かれているのは有名な『仏は常にいませども』の文だ。
箇所を指差す動作すらも、育ちがいいと違うものかね。などと考えつつ、海聖は示された今様を詠みだした。


「なぁ、これはどんなん?」
「これ詠んでくれへん?」
「これおもろいなぁ!」
飽きる事を知らない子供のように朗詠をせがむクリスに、海聖は呆れたように言った。
「クリス……前から思ってたけど…あんた相当変わってるよね?」
「そうなん?」
「そうよ」
そう言い切ると、海聖は最後に詠みあげた句をなぞる。
「こうやって授業外で古典を図書館で詠むなんて、変わり者以外の何者でもないよ?」
「じゃあ、狭倉はんも変わり者なん?」
「うん」
はっきりきっぱりと言い切る様は清々しい。
きょとんとするクリスを置いてきぼりに、海聖は悔しそうというより憎々しげに、誰に言うわけでもないのに呟く。
「一年の時、更科日記持ってたら、佐伯に鼻で笑われたあの屈辱…今でも覚えてるわよ……ふふふ………」
「えー………狭倉はん?」
「あ、ごめん。ちょっとトリップしてた」
そう不自然なまでに美しくニッコリ笑う海聖に、これまた柔らかな色気を含んだ微笑を返すクリス。
この流れで疑問を口にしない上、笑顔で返答できる辺り、クリスはやはり大物と言えよう。
「そう?ならええけど…」
「でもクリスって古典好きだよね。難しくない?」
「んー……好きとは微妙に違うんやけど……」
「へ?」
きょとんとした海聖の頬に夕暮れの赤い光がさす。
それに気付いたクリスは微笑みながら、「最後にこれ、詠んで?」とねだった。
海聖も窓の外の紅色の空を見て、そろそろ下校時刻間近とわかったのか、特に反論せずに示された箇所を詠みあげたのであった。




『色々付き合ってくれたお礼に片付けはやっとくから、暗くなる前に帰りや』
と海聖を帰した後の図書室にクリスはぼんやりと座っていた。
「………噂には聞いとったけど、ほんまに鈍いんやなぁ」
そう呟いて、開かれたままの梁塵秘抄の一説を撫でる。なぞるのは
「恋しとよ君恋しとよゆかしとよ、逢はばや見ばや見ばや見えばや……なぁ」
朗々と詠み上げた彼女の声を思い出すように、クリスは瞳を閉じた。紅の光が彼の金の髪を赤々と燃え上げさせる。

凛とした風情に、芯の通った真っ白な心、臆する事を知らない真っ直ぐな少女。
一目惚れだった。

「でもほんまにあれは気付いてへんな…」
くすくす、と笑いながら、少女の態度を思い出す。
単に古典の事を習いたければ、他にも沢山の少女がいる。
それなのにわざわざ毎回海聖に聞くのは、彼女に近づきたいからだ。―――最も、肝心な彼女には露ほども伝わっていないようだが。
「…ま、でも、ボクがこんな気持ちやって知っとったら、仲良うしてくれへんかも知れんしなぁ」
猫気質やし、と呟いて、猫耳と猫尻尾をつけた海聖を思い描き、その違和感の無さにくっ、と思わず噴出す。
(でも、このままの関係に甘んじる気は毛頭ないけど)
彼女の周りには恋愛感情を置いておいても、よく男子が集まる。用心するに越したことはない。
「ま、焦っても仕方あらへんか」
まだまだ先は長い。
とりあえずこの本を片付けようかと、クリスは本を閉じた。



恋しとよ 君恋しとよ ゆかしとよ―――恋しいなぁ 君が恋しいなぁ 慕わしいなぁ

彼女が紡いだ古の恋歌を、心のうちで反芻しながらクリスは本を仕舞うのであった。



京言葉参考・京都パーフェクトガイド内標準語→京言葉風変換スクリプト(サイト内京都ネタからいけます)



up/2006/07/23

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