何も知らない頃、恋はもっと甘く、優しいものだと思っていた。
倖せの結晶だと信じていた。

知らなかった。
慕情は妬みを生み、憎悪を孕み、怨嗟の咆哮を上げつつ、正気を焼き切ろうと身を嘗める。
さながらこの身は狂い咲いて、散ることの知らない花。
恋情は我が身を蝕み、理性や幻想を喰い尽くしつつ、知らなかった欲と残忍さを撒き散らし、蓄積していく。

この身を天女、花、救いと言うたのは誰か?
否、汚れたこの身は獣。
恋に狂い、理性も、良識も、人並み以上の倖せも何もかもを捨て去り、陽炎に焦がれるただの畜生だ。









――――――初春
鎌倉殿から裏切られた九郎が奥州藤原氏の元に身を寄せてから、一つの季節が過ぎて新たな季節を迎えようとしている。
そんな中、九郎と共に鎌倉殿から逃れてきた龍神の神子・春日望美は伽羅御所から少し離れた丘の上にいた。
まだ眼下には白銀が広がっているが、もうすぐに柔らかな緑が芽吹くだろう。
その頃には鎌倉との戦は決しているだろうか、と鎌倉への戦へ向かう事を考えて、少し憂鬱になった。
きっと、その頃のこの地は綺麗だろう。―――――彼が、育った大地の春は。

どれ程、丘の上でぼんやりしていたのか、気付くと背後に人の気配がした。
が、望美は腰に携えた剣を構えることなく、目の前の景色を見ている。
近づいてくる気配には覚えがあった。
これは―――――望美が狂うほどに想う男の気配だ。

「ここにいたのか」

半ば予想していたその声に、望美の胸は自然と高鳴った。
余韻をかみ締めるようにゆっくり振り返れば、そこには望美が全てを捨て裏切ってまで選んだ男が佇んでいる。

「泰衡さん、どうしたんですか?」

高鳴る鼓動を抑えつつ、望美は男の名前を呼んでから軽く笑んだ。

「軍議の刻にはまだ余裕があると思いますけど」
「いや……九郎達が心配していた」

望美の笑みから逃れるように、泰衡は視線を逸らす。
それは彼女から愛しい人を奪った罪悪からか、それとも望美の笑みに興味がないのか。
望美には判断する術がなかったが、彼女は気にせずに―――いや、若干寂しそうに瞳を伏せて、風に遊ばれ乱れた髪を耳に掛けながら言った。

「それでわざわざ探してくれたんですか?ありがとうございます」
「今、貴方に何かあったらこちらも困るからな。もうじき鎌倉方との戦だ。戦の前に刺客に神子殿を殺されても困る」
「そう簡単に殺されませんよ。これでも三草山・壇ノ浦と戦ってますから、そこらの兵士より強いんですよ?」

望美がそう笑うと、泰衡は厳しい視線を望美に向けた。
一国を背負う男の濡烏色の瞳に自分が映っているという事実に、望美の心に歪んだ満足が満ちてゆく。
そんな事を知ってか知らずか、泰衡は冷たいこの大地を思わせる冷淡な口調で言う。

「神子殿、あまり御自分を過信なさるな。貴方は神子である以前にか弱い女性だろう?」
「……ああ、泰衡さんってやっぱり九郎さんの事が好きなんですね」

くすくす笑いながらそう望美が言うと、泰衡の眉間の皺が濃くなった。
苛立ちを隠す気もないのか、厳しい口調で望美を咎める。

「神子殿、何を戯けた事を」
「九郎さんもね、よく言ったんですよ「女のクセに強がるな」って。一緒ですね」

最も近頃―――銀が行方不明になってからは、九郎が望美にあまり厳しいことを言うことがなくなった。
親友に想い人を殺された望美を九郎なりに思い憚っているのだろう。
人の良い九郎さんらしい、と望美は思う。九郎は優しく、真っ直ぐで、歪んだ人の心の機微に鈍感だ。
もし、九郎が望美の心の内を知っていたら、こうはいかないだろう。

「でも、泰衡さん。私は女である以前に神子なんですよ。――――この選択を選んだときから、ね」


神子じゃなかったら、今、貴方と共にいる資格すらないでしょう?



その言葉は唇から零れる事なく、深い胸のうちにすとん、と落ちる。
深く落ちた事を確認してから、望美は泰衡を見た。


望美が愛した、誰よりも何よりも愛しい男。
どの時空でも決して望美と結ばれることなく、どの時空でも生き永らえることのない男。
彼と共にあれるなら、
彼を一秒一刻でもこの時空に留め置くことができるなら、
望美は修羅になる事ができた。
自分の持つ価値を理解した上で、自分を慕う男を彼に殺させ、彼の持つ罪悪と状況がはじき出す打算から彼が隣に立たせる道を選ばせた。
そうして今、望美は泰衡と同じ高さで、同じ行く末を見れる位置に立てた。
――――――それが泡沫の夢だと知っていても。

鎌倉勢に勝てば、望美は九郎と婚姻を結ぶ事になるだろう。
まだ誰の口にも立っていないが、望美は自然と理解していた。
奥州が九郎の後ろ盾とは言えども、この戦は飽くまで九郎を掲げた、源氏対源氏の戦なのだ。
この先、泰衡は決して表舞台に出ることはない。
彼の優先順位は九郎が先で、自分や奥州の地は下なのだ。
自分を九郎の踏み台にし、それを覆すことはない。彼はただ九郎を押し上げようとだけしている。
そんな泰衡からすれば戦後、九郎の地位を確立させるために戦女神と言われる「龍神の神子」を彼の正妻に当てる事は自然な事であるはずだ。
望美はそう考えていた。
―――事実、望美の予想通り、泰衡は両人の意思を尊重することなく、秘密裏に戦後に二人が婚姻を結ぶ手筈を整えていた。
九郎は、この事に気付いていない。
望美が何よりも誰よりも泰衡を優先するように、泰衡は何よりも誰よりも九郎を優先している。
戦の正念場ともいえる今、泰衡がわざわざ純な九郎を動揺させるようなことを吹き込むはずがないし、彼がそういう思惑とは無縁の人だと誰もが理解している。
それは望美も理解している。
事実、九郎が自分に送る視線には憐憫の情はあるが、自分と望美がどうこうなるという感の気配は全くない。


それでも望美は幸せなのだ。
泰衡の駒の一つであろうが、泰衡が望美を見ることなくても幸せなのだ。
ただ泰衡が生きているだけで、泰衡の役に立っているだけで、望美は幸せに満ちていられる。

―――――それももしかしたら今のうちだけで、その時が来たら、九郎を暗殺し、泰衡を求めるのかも知れないが。

そう思って、望美はほくそ笑んだ。恋に狂った自分だ、有り得ない話ではない。

だがそれは未だ知りえない未来の話である。
今は、望美は泰衡の隣にいる。
刹那的な幸福だが、望美はそれに満足していた。


自分を見つめたまま何も言わない望美を不審に思ったのか、泰衡が少々困惑したような声音で呼んだ。

「神子殿?」
「……すみません。ちょっと、風に当たりすぎたみたいです」

ニコリ、と泰衡の心配を吹き消すように慣れた笑みを浮かべた。
事実、先ほど髪を掻き揚げたときに触れた頬の冷たさは、尋常でなかった。
早いうちに火に当たらないと、体に支障が来てしまうだろう。そうなると泰衡の迷惑になってしまう。それは困る。

「戻りましょうか」

一応探して迎えに来てくれた泰衡にそう告げて、望美は泰衡の下へ向かった。
と、同時に泰衡はおもむろに何時も羽織っているマントを脱いで、望美に被せる様にかけた。

「………え?」

思いがけない泰衡の行動に、望美は久方ぶりに驚いた思いを隠すことなく吐露してしまった。
泰衡はそんな望美の表情をいつも通りの不機嫌そうな顔で見て、何の事もないと言う様に言った。

「唇が青ざめている、どれだけ長い時間ここにいたんだ。
 この戦には貴方が必要なのだとわかっておられるのか?
 ……やはり、貴方は自分を過信している。もう少し御自愛して欲しいものですな、神子殿」

そう嘲る様に泰衡は笑って、望美を置いて足早に歩き出した。
望美は黙ったまま、急いでその後ろについていく。
体をすっぽり包みこむ彼の温もりと香りで歪んだ顔を、金の下がり藤が揺れる黒衣に隠して。


―――――全てを裏切り、全てを踏みにじってまで陽炎を求める獣は、
       手に入れた抜け殻の暖かさに涙し、何も知らない陽炎の後を追うのだった。





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