八葉の都合が悪くて休みとしたある日、市を朔と二人で歩いていた際に可愛らしい紅を見つけた。
貝の内側に紅が塗られてあり、貝の外側に小さな花の絵が描かれている品物。
それを手に取り買おうか買うまいか悩んでいた際に、物売りのおばさんが教えてくれた。
 
は魔を払う色彩
故に神の社や、神の意を受ける娘はを身につける
 
という事を。
 
 
 
「って事は、私も口紅とかつけなきゃだめなのかなぁ」
「何の話だい?」
「わっ…!!」
世話になっている宿の廊下を歩きながら望美は一人ごちていると、いきなり後ろから声をかけられて手の中の貝を落としそうになった。
わわ、と貝はお手玉のように数度空を跳ねたが、幸い貝は地に落ちずに望美の手の中に収まってくれた。
ほっ、と安堵の息をついてから、くるりと声をかけた相手―――ヒノエに向き直る。
「ヒノエくん、いきなり話しかけないでよ。落としそうになったじゃない」
「ふふ…驚かせたなら謝るよ。でも、姫君が何をそんなに気にしているのか気になってね」
文句を言えば謝罪と共に口説き文句が返って来た。
よくそんなにスラスラと口説き文句が出てくるな、と半ば呆れつつも望美もやはり年頃の娘。
頬がほんのり赤くなるのが自分でも判り、何か決まりが悪くなって視線を外す。
「で、神子姫様は一体誰の為にこれをつけるのかい?」
そう問われて再度ヒノエを見れば、ヒノエの手の中には先ほどの紅。
軽く遊ぶように片手で弾ませている。
「い、いつの間に…?」
気付かぬうちに紅を取られていたその手際のよさに、望美は小さく疑問を投げかけた。
しかし、その小さな疑問を無視して、ヒノエは言う。
「で、誰のためにこれを手に入れたんだい…?望美…??」
耳元に顔を寄せられ少し熱っぽく囁かれて、望美の身体は強張った。
頬は火照り、鼓動は早くなり、この場から逃げ出したい気持ちになる。
しかし意識とは裏腹に足は縫い付けられたように動くことを知らず、またヒノエが肩を掴んでいるために逃げ出すことは叶いそうに無かった。
「べ、べつに、誰のためってわけじゃないけど…」
「本当に、そう…?」
「〜〜〜〜!!」
耳元にかかる吐息と甘い声音がくすぐったくて、声にならない声が出てしまう。
これ以上問い詰められると、何か乙女の危機な気がする。いや、何かじゃない。絶対に、だ。
そう思い、望美は買った訳を白状しだした。人間、諦めも大事である。第一、意固地になって言わない理由もないのだから。
「た、確かに、「可愛いから」ってだけで買ったわけじゃないけど…本当に、誰のためってわけじゃなくてね。
 あえて言うなら……みんなのため、かな?」
「皆のため?」
耳元に不機嫌で怪訝な声で囁かれて、何故か自分でも判らないほどの焦燥に駆られ、慌てて理由を話し出した。
「市の人に聞いたんだけど、赤って魔除の色なんだって…ってヒノエくんは知ってるだろうけど」
熊野の神職に携わる彼なら知っていて当然だろう、と慌てた自分に苦笑い。それでも胸の奥に燻る焦燥は消えないので、言葉を続ける。
「口紅も魔除の一種だって聞いたから、つけてたほうがいいのかなって」
神子たる自分がさらに魔除の意を持つ紅をつけていれば士気も高まるのではないか。という小さな発想だ。
気休めかも知れないが、その気休めで戦の中少しでも有利になれるなら望美はいいと思う。
ヒノエを筆頭に―――源氏方でない、たくさんの人が戦には参加している。
出来るならその人達の血をあまり流さない様にしたい、と望美は思っているのだ。
「だから、誰のためとかじゃないんだよ…わかった?」
「ふぅん…わかったけど、それでも妬けるね」
すっとヒノエが離れたと思えば、くいっと顎を掬われてヒノエの端正な顔立ちが間近になる。
「オレ以外の野郎のために、身を飾るなんて…ね」
魔を払う紅色の瞳で射るように見つめられ、望美の頬は火照る。
穢れを弾く、強固な輝きを放つ紅の瞳。魔性だけでなく、望美も蕩かせる紅の色彩。
「それに、あまり意味ないと思うぜ?」
「ぇ…?」
いきなり言われた事に掠れる声で返事を問えば、ヒノエの端正な指先が望美の唇をなぞった。
ぬるりとした何かが唇を彩るのが感覚としてわかった。ヒノエの指先が離れる。
その指先が赤く染まっていて、それで紅を点されたとやっとわかった。
「赤い唇、火照った頬…全部、破魔の色なのに」
 
オレを誘って止まないぜ?
 
そう低く甘く囁かれると同時に、吸われる唇。
いきなりの口付けに望美の瞳は大きく開かれ、ヒノエの背中に手を回して叩く。
しかしヒノエはまったく応ぜずに、やわく望美の唇を食む。
望美は微かな抵抗を試みるが相手にされない。
その内、その小さな抵抗も止み、ただ唇を貪られた。
 
 
どれだけの時間が経ったのだろう。
多分、周囲の者からすればさほどでもないだろうが、望美にとっては千夜もかくやという頃合になって、ようやっとヒノエの唇は離れた。
呼吸が楽になり、緊張が緩んだのか足から力が抜ける。
かくんと身体が揺れて尻餅をつきそうになるが、その前にヒノエの腕が望美の腰を支えた。
「おっ…と、大丈夫かい?」
「ひ、ひひひ、ヒノエくんっ!?」
先ほどの行為の所為でか真っ赤になってどもる望美。それを見てヒノエは楽しげに笑う。
その唇には口付けの際に移った紅が妖しく光っていて、艶かしい。
「ホント、可愛いね、望美は。オレの手の中で閉まっておきたいよ」
紅の所為か、いつもより艶かしい様でヒノエは囁く。
望美はそんなヒノエの色気にドキドキしながらも「ヒノエくんっ!!」と強く彼の名を呼ぶ事と、彼に奪われた紅を余計に乱雑に取り返す事で反論の意を表した。
それでもヒノエは全てお見通しとばかりに笑ってみていたが、不意に何か思いついたのか望美の首筋に唇を寄せて、強く吸い付いた。
「あっ…!」
思いも寄らない行動に呆気に取られていたが、首筋を走るちくりとした痛みに小さく声を上げる。
今回は長く口付けるという事は無く、ヒノエにしては呆気なく望美から離れた。
望美は口付けられた首筋を手で覆い、ようやく自由が利いた足でヒノエと距離をとった。
「………今、何をしたの?」
じり…と、まるでネコが警戒するような望美の態度にヒノエは悪びれなく笑う。
「魔除、だよ」
「魔除け?」
「いや、…魔除兼虫除け、かな。正確に言うなら」
「??」
そう楽しげに笑うヒノエの真意がわからず、望美は怪訝な顔で彼を見つめる。
けどヒノエはそれすら楽しいとばかりに微笑んで、
「もう、夜も遅い。部屋まで送っていこうか?」
と言ってきた。その言葉で望美はやっと気付く。
ここが、宿屋の廊下だという事に。
それに気付けば今までの行動が走馬灯のように頭を駆け巡る。
―――誰かに見られたかもしれない…
そう思うと、望美は頬を赤くする間もなく、ヒノエの前から本能的に走り去った。
あまりにも唐突だった所為かヒノエも止めることなく、望美は廊下の曲がり角へ消える。
望美が立ち去った廊下の先から、「い、いい、いい!!一人で戻る!!」という声が聞こえた。
その言葉すらだんだん小さくなっていくので、走りながら言っているのがわかった。
遠くで襖が開いて勢いよく閉まる音がした。きっと部屋に戻ったのだろう。
ぽつん、と一人廊下に残されたヒノエは、女が逃げ去ったというのに何処か楽しげに唇を歪ませていた。
 
 
 
「はぁ…っ、はぁ…は…」
一方、全力で部屋に戻った望美は部屋に入るや否や、襖を閉めてそのまま座り込む。
顔を項垂れたまま、大きく肩で息をする対の神子に、部屋でのんびりと茶を飲んでいた朔は心配そうに声をかけた。
「望美?どうしたの、そんな息急ききって……何かあったの?」
望美はその問に「ぜいぜい」と息をつきながらも、片手で『大丈夫、何でもないから』と合図をした。
しばらく息をゆっくり付き、顔の火照りも取れた所で望美は朔に謝罪の言葉をかける。
「ごめんね。扉いきなり開けて…」
「ううん、平気よ。落ち着いた?はい、お茶」
そう言って朔は望美の傍まで近寄り、茶を渡した。望美が息を整えている間に用意をしていたらしい。
「ありがと、朔」
笑いながら素直に受け取る。「いいのよ」と笑う朔が、望美に茶を渡した後、何かに気付いたような表情になった。
「? 何??」
「望美、虫にでも刺されたの?」
「え。何で??」
お茶を一口煤ってから問えば、朔は自分の首筋を触り『ここ』と軽く叩く。
朔が指指して示した場所は、偶然か先ほどヒノエが唇を寄せた所。
望美が手で擦ると、朔は心配そうにこう言った。
「赤くなってるわよ、そこ」
 
「魔除、だよ」
「魔除け?」
「いや、…魔除兼虫除け、かな。正確に言うなら」
「??」
 
脳裏に駆け抜けるヒノエとのやり取り。瞬間、望美の笑顔が凍りついた。
 
―――ひ、ヒノエくん…まさか、き、キスマークつけたああああ!?!!?
 
 
 
 
自室へと戻る廊下を歩きながら、ヒノエは楽しげに呟く。
 
「さーて、もう姫君は気付いたかな?」
 
呟きながら、笑みの形に歪む唇に残った紅を親指でぬぐう。
指先に付いた朱色を見ていると、きっとこの紅のように赤く頬を染めて、挙動不信になりながらも対の神子に言い訳をしている望美の姿が浮かんだ。
ありありと浮かぶその光景に笑みを溢しつつ、ヒノエはその紅を舌で舐め取った。

 

 

姫君の白い肌に散った 赤い花弁、一つ

魔除なら、紅よりそっちのほうがずっといい



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